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'細川ガラシャ夫人' [書物(本・雑誌)雑感]

'細川ガラシャ夫人(上)(下)'
三浦綾子
小学館
小学館eBooks 三浦綾子電子全集
2012年12月28日
(底本)新潮文庫刊(2012年7月10日第51刷改版発行)

 細川ガラシャ、玉子は明智光秀の娘である。明智光秀の本能寺挙兵は足利将軍家再興を計るものだとの手紙が少し前に新聞に載っていたが、信長が足利義昭を奉じての上洛には光秀と細川幽斎の働きがあった。光秀と凞子から生まれた玉子は信長の命により細川幽斎の長男忠興に嫁ぐ。この本では本能寺の変は信長による光秀の領地没収が契機として描いている。細川家では存亡をかけて明智の娘を生かしておくわけに行かないと問題になるが、この上ない美形の玉子を失うことを忠興が拒否、二年間「丹後の味土野」に隠されることになる。幽斎は足利義輝・義昭に仕えていたが、夫細川忠興が信長、秀吉、家康と戦国の世で生きのこる苦しみを玉子の目・心情(必ずしも忠興に忠実ではない)から描かれ、キリストの安息に導かれていく。いくさによる周辺の変化もあり退屈させず読ませるが、無類の女好き秀吉への謁見、石田三成の大阪城への呼び出しはドラマティックである。

 「氷点」の三浦綾子である。細川ガラシャは読みたかったが、作者がキリスト教徒であり僕のこだわりから読まなかった。本書でもすでにキリシタンである公家出身の清原佳代(マリア)との問答のなかで、キリスト教と仏教違いは「神」はカミが申したことで「仏」はヒトだから神が上と・・・。エッ?てなものだ。この問答は冗談として、僕の心が仏教に帰依したのはインドの神々について悩みヒトをとった仏のほうが上だと思うからだ。描かれるキリストの福音は安息であり、イスラム教徒のインシャラー(インシャー・アッラー:神のみ心のままに)と本義的は同じだろう(イスラム世界ではかるく使われることも多いらしい)。仏教で云えば煩悩を捨てた境地か?むしろ無常・空に近いか(ハイ、書きすぎです)。絶対神に委ねるあちらの云い方だろうが、自力本願での解脱に比べると楽だよね。でも大乗仏教でも他力本願でが「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」だから信徒・非信徒を区別しない仏教のほうが宗教的だと思う。神が申したことよりヒトが考えたほうが深い気がする。まあ、下らん問答があったもので 、宗教のほうは信心であり優越はないと認めなければいけないはず。でも、「夫に仕えるのは神に仕える」ことと死を選ぶのは教条主義的にならないか・・・?それが絶対神なのだろうが、当方「仏に逢うては仏を殺せ」宗派なもので・・・(遍路中に創価学会の勧誘を受けあまりに仏・ほとけと云うもので、この言葉を云うと本当に怒りはじめた。信心が深いって良いなあ・・・、でも嫌。破れ袋に風を入れて生きたい。)
m(_ _)m。

 この本から受けるひとつの強い思いは戦さのない世の中である。戦国時代に生きる聡明な女性(現代女性に近い)を描き、玉子と小学校教員を七年間勤めながら軍国主義教育・それまでの国家のあり方に苦悩し昭和21年退職する作者自身の強い平和への願いでないだろうか。飽くまでも女性の目として描かれているが説得力がある。

P.S.
 図書館戦争(あっ、単に戦争で思いついただけだから)も良いが、本格的な歴史小説を読まれるのも一興かと。
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