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第三十七番札所 藤井山岩本寺(五智院) [四国遍路]



第三十七番札所 藤井山岩本寺(五智院)



<<住所>>高知県高岡郡四万十町茂串町3-13
<<電話>>0880-22-0376


<<本尊>>不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩
<<開基>>行基
<<宗派>>真言宗智山派
<<御詠歌>>六つのちり五つの社あらわして深き仁井田の神のたのしみ

<<駐車場>>あり
<<宿坊>>あり(80人)要予約


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天井画その1


 岩本寺と云えば本堂建立の際、天井を覆うため募集された絵で有名だ。実は岩本寺のページを作ろうと思った際、最初の写真は天井画でなく石柱を使おうと考えていた。次の写真である。


山門を入り右手側に回った所の石柱


 僕は本ブログに高岡神社(1)それでも、やはり、岩本寺高岡神社(2)それでも、やはり寄りたい、仁井田五社を書いた。岩本寺の本来の役割を表しているのが、この石柱(文化十三丙子 1817年造)だった。「卅七番大師堂 並五社納経所」と大きく書かれている。岩本寺の歴史で一番大事なことだろう。(以下独断と偏見だからご自身で確認を)。

 岩本寺から北北東約2Km、四万十川の対岸に高岡神社がある。古代ここに六神を祀る仁井田大明神があった。<<寺伝:天平年間に行基が仁井田大明神に福圓満寺(以下福円満寺)を開創、さらに天の七星に倣い六寺を建立し七福寺と呼ばれた>>。弘仁年間に空海は仁井田大明神を五社に分祭各々に本地仏五体を納め五社大明神と改称、境内に福円満寺を開いた<<寺伝:さらに五ヶ寺を建立し七福寺は十二福寺となった>>。本地仏五体を納めた五社大明神(現高岡神社、以下五社または五社大明神)が札所であった。

<妄想の基>
 ここで仁井田郷(現窪川町全域と中土佐町の一部)について。応仁2年(1468年)土佐に入った一条家は在地勢力の仁井田五人衆(窪川・東・西・西原・志和氏)を荘官に任じたが、後に佐竹氏・南部氏・蹉陀分が加わり仁井田郷は八地区に分けられた。蹉陀分と読んでピンときた方は鋭い、蹉陀山金剛福寺領である(ちなみに五社の各宮は仁井田五人衆が各々支配していたようだ-南路志-)。仁井田之郷地検帳によれば仁井田五社の神田は散在し神主領を合わせると25町余で、ほとんどは蹉陀分である。また仁井田五社のある仕出原村は宮内村とともに主に蹉陀分である。仁井田五社は金剛福寺領仁井田山の鎮守として金剛福寺が経営に大きく関与していたと考えられるそうだ。</妄想の基>

 享禄-天文の頃(1528~55)福円満寺は衰退廃寺となり、仁井田五社の別当職にあった金剛福寺住職尊海法親王が宿坊として岩本坊を創建した(1589年仁井田之郷地検帳に岩本坊)。<<寺伝:天正の頃、兵火で寺社ともに衰退、再建時法灯・別当職が岩本坊に移った>>。それでも何故福円満寺跡地に福円満寺再建でなく、窪川に岩本坊なのだろう?<妄想>火災があったとしても福円満寺が衰退廃寺となった大きな要因は金剛福寺の考えがあったからでないだろうか?空海が福円満寺を作ったにしろ、当初は地元による経営が当然だっただろう。いつからか判らないが金剛福寺が絡んできて、土佐一条家隆盛の折には、福円満寺の経営は主に金剛福寺が行っていた。その土佐一条家が衰退、新たに長宗我部が仁井田五人衆を安堵している。札所である五社大明神が再度仁井田五人衆に支配されるようになり、(すでに焼失していたかもしれないが)福円満寺経営も地元へとの要求が強くなっていたってことはないだろうか?収入源の一つである納経を巡って安堵された仁井田五人衆と一条家の後ろ盾をなくした金剛福寺の争いがあったのでないだろうか?そのため以前に比べ劣勢の金剛福寺側が敢えて五社大明神から離れた地に岩本坊を創建したのではと考えてみる。</妄想>もちろん岩本坊が必要とされる要因はあった。街道と五社大明神を隔てる四万十川の存在である。増水すると街道から五社大明神にアクセスできなくなる。窪川側に遙拝所があり一応札を納めることはできるが、納経はできない。遍路への納経と宿泊サービスの名目で四万十川の窪川側に納経所をつくるのは別当寺として当然だろう。しかし岩本坊はそう歳月の経たない16世紀末に焼失したと云う。福円満寺の焼失と共に、また後の岩本坊の激動に何かあったのではと妄想を働かせてみた。戦国時代末期から江戸時代の金剛福寺・仁井田五人衆の正確な力関係を知らない僕の妄想だから、信じちゃダメ。(^^; 時期が判らないが僧釈長が再建し岩本寺と改称、その後京都仁和寺から住職として快長を迎え寺領が増加した時期もあったらしい。

 福円満寺廃寺後、納経を司ったのは五社中宮で岩本寺が納経を司ったのは明治の再興以降という説もある(高知県の地名 平凡社)。たまたま一度金剛福寺現住職とお話しする機会があり、五社大明神(中ノ宮)による納経についてお聞きした。別当職が岩本坊・岩本寺に移っているから、正統的に納経は岩本寺であり、中宮で行ったのは納経による収入が目的との見解だった。神社における別当職の意味を考えると全くその通りだ。しかし、僧釈長による再建まで岩本坊がなくなっていたり、神仏混淆の一般庶民は五社御朱印と区別しなかったのかも知れない(五社大明神が神社御朱印でなく納経していたかも知れないが、全国には江戸時代の納経帳も残されており検討すれば判る話だ)。

 御一新後も岩本寺の激動の歴史は続く。明治初年に神仏分離令が発布される。神仏分離により五社大明神と分離、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一される状況となった。本法は仏教排除を意図していないが全国的な廃仏毀釈運動のきっかけとなり、高知での廃仏毀釈運動は激しかった。岩本寺も明治4年に廃寺となっている。その後がまた判らない。明治18年愛媛県八幡浜に大黒山吉蔵寺(幻の37番札所大黒山吉蔵寺:八幡浜市-愛媛西方圏ブログ-)が新たな37番札所として開創されている。愛媛西方圏ブログからコピペで紹介させて頂くと、高群逸枝によれば彼女は九州から八幡浜に上陸後すぐに吉蔵寺に参拝。
一体大黒山吉蔵寺という寺号は、大黒屋吉蔵という人の名から取ったもので、大黒屋といえば現にこの地での多額納税者として誰知らぬ者なき素封家であるが、今から三十幾年前この吉蔵なる人、夜臥床にありて時ならぬ鐘の音を聞き、不審とは思いしも、そのままにすて置いて翌朝例の如く早く目を覚ますと、家内の者が仏間にこんな物があったといって、持って来たのを見ると八十八ケ所の納め札で、住所氏名は書いてなくその枚数三十七。ここにおいて、さては三十七番の札所をどうかせよとの、仏の思召しかと考え先にいった岩本寺を調べてみると、見る影もなく衰微しているので三千五百円を以て、本尊と納経の版とを買いとる事に相談をつけ須臾にして建立したのがこの寺である。(娘巡礼記)

 エッと思う話だが、誰かが「本尊と版」を売ったのである。廃寺となった岩本寺で版を使って非公式に納経し金銭を受け取っていた人(不特定多数かも?)がいて、その人が売ったのだろうか?(注:現在納経は墨筆によるもののみになったが印版による納経も広く行われていた。)明治38年の岩本寺再興後と思われるが、岩本寺から本尊・版の返還訴訟がなされ岩本寺が勝訴している。現在の岩本寺は、明治22年から続いているらしい。四国八十八ヵ所霊場会公式ホームページの岩本寺にも再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。とある。僕が初めて行った40年前に較べるとずいぶん落ち着いたお寺になってきている。今後も頑張って欲しい。
m(_ _)m長イ(仁井田五人衆ト金剛福寺ノ妄想付)混乱ノ歴史終ワリ
石柱ひとつでエライ目に合った。(^^;


岩本寺山門



岩本寺仁王像


 門前のお店から短い階段を上って岩本寺に入る。山門には立派な仁王さんが陣取っていらっしゃるが、はじめて行った時は味のある顔だけの仁王さんが出迎えていたらしい。記憶にないもので当時一緒に回っていた女の子に確認したが覚えていない。その時の手持ち写真を調べたがなく、フィルム自体は見当たらない。で、四国霊場の旅(徳島新聞社)より借用m(_ _)m。


岩本寺旧仁王像




岩本寺宿坊


 札所の宿坊も減ってきた。愛媛県では今治仙遊寺のみになったと御住職が仰有っていた。歩き遍路の減少で遍路宿もご高齢のため廃業される所も多く、今後も続けて欲しいものだ。下記は四国遍路ひとり歩き第3期第2日-菊水へんろ館-からのコピペだが、1998年当時であり現在の状況ではありません。参考にならないかもしれませんが、NHK四国八十八か所(1998年4月から2000年3月)が放映され、歩き遍路が激増する直前の記録として。m(_ _)m
宿坊とユースホステルを兼業しているお寺はいくつかある。同じタイプの客室を使い、同じ食事を頂くのだが、宿坊の客とユースホステルの客とでは料金が異なる。他のお寺のシステムは知らないが、この岩本寺では、料金が異なる分、待遇も異なった。

まず第一に、唯一の宿坊のお客であった僕は、床の間の近く、即ち上座を与えられた。次に、他の客は、ご飯は共同のおひつを使うが、僕には個人用の小さな専用のおひつが与えられた。他のお客は、共同の鍋からみそ汁を自分で取り分けるが、僕には専用のお碗が給仕された。そして最後に、他のお客は、食後、自分の食器を片づけなければならないが、僕の分は宿坊の人が片づけてくれる。料金は一泊二食つきで、宿坊は5000円、ユースは4500円(いずれも税別)である。

 2014年3月現在、(宿坊)一泊二食6000円(ユース)宿泊費3200円(非会員1000円増し)朝食600円・夕食1000円とのことです。他の方のサイトで宿坊のお米が美味しいとありました。高知の米は全般的には美味しくないとのことですが昔のこと、当地の仁井田米は美味しいと有名です。遍路道から国道に戻り歩いていると仁井田米を使っていると看板のある食堂があったでしょう。また、トイレは宿坊内にあり声をかけることで利用可能です(不在の時の電話番号も記載されています)。


水天宮


 水天宮のことはまったく知らなかったのですが(^^;・・・。水難除けと安産祈願の神として信仰されている(楽しくなければ遍路じゃない)とのことで、当寺の七不思議伝説のひとつである子安桜に関係しているのでしょうか?また、JRが通るのはこのうしろ写真では水天宮の屋根の高さにレールがあります。線路沿いに水天宮の右手には味のある石仏が並んでいます。


本堂


 岩本寺本堂(昭和53年建立)。岩本寺の特色は五仏本尊のお寺であることだろう。すでに書いたが弘法大師が神社の神々を五社に分け、その本地仏を祀ったとされる五社大明神が札所であった。昔のお遍路さんは五社のひとつひとつで真言を唱えていたのだろう。ある意味本堂で五つの真言を唱える現状もそれはそれで特色となっている(五ヵ所でそれぞれを唱えるのも、最強の特色になると思われるが・・・)。ちなみに青龍寺のミニ88ヵ所には五社阿弥陀如来の石仏に岩本寺不動明王の立て札がある。中央にあり一番大事だろう本尊が阿弥陀如来であり、五社の並び順でもっとも東が不動明王ってことだろう。


本堂前の仏足跡
本堂前の観音像


 本堂の向かって左に仏足跡 右に五本尊のひとつ観音像が置かれている。


地蔵菩薩像


 地蔵菩薩も五本尊のひとつだが、折角の岩本寺。矢負いの地蔵作製をお願いしたほうが良かったのでないでしょうか?子供を救う地蔵菩薩はお馴染みですが、六道で苦悩する生き物を無限大の慈悲で救おうとする地蔵さんが、苦悩する猟師の身代わりになるんだから岩本寺にふさわしい。


高田屋嘉兵衛と海月庵


 ネットで教えて貰ってエッと思った、お墓と木の間の小さな石柱のことである。。岩本寺遍路石高田屋嘉兵衛岩本寺の遍路石2高田屋嘉兵衛さんについて(♪四万十あちこちたんね隊♪)である。江戸末期云々と書こうとしても、情報はこれらのページからであり、いっそさわりを遍路石2からコピペ。
この時、あんまし体の強くなかった奥さんのおふささんは、、高田屋の者を連れて四国八十八か所に無事帰ってくるように一生懸命にお願いして回りました。

ご利益があって、1年後無事帰ってくることができ、帰国した高田屋嘉兵衛さんは、さっそく四国八十八か所にお礼まいりを行いました。

(中略)

何かお返しができれば(何か役に立つものを)と考え、岩本寺の聖心和尚(?)に相談したところ、

「それなら添蚯蚓坂の海月庵を直したらええわい・・・」

海月庵の新築(?)となりました。庵寺の横に遍路石を置きました。

 国道ができて添蚯蚓の社会的使命が終わった頃、この石を岩本寺に運んでこられた男がいたのですね。添蚯蚓で窪川に向かい左側に少し平たくなっている所が海月庵跡地と思っていますが、観光情報遊ぶ(中土佐町)に海月庵はその昔、修行中の空海が久礼湾上の月を賞して「海月庵」 という庵を結び、地蔵菩薩と自坐像を刻んだという空海修行伝説の地と説明。明治の頃には庵跡は茶店になっていたようですが、そこにあった石であり五社に較べやや弘法大師の臭いが薄い納経所岩本寺で、高田屋嘉兵衛のお陰で本尊を除くと一番弘法大師にご縁がある石かも知れない、少なくとも遍路(昔は当然歩き)との関係は深い。


鐘楼


 ここから庭は奥に入るようになるが、右手前にある鐘楼。


聖天堂


 庭の奥にある大師堂に向かい最初に目立つのが円形木造の聖天堂(平成8年落成)である。祀られているのは歓喜天(象頭人身のガネーシャタイプらしい。「日曜遍路」エス・ピー・シー出版2013)が単身か歓喜仏か判らない。


大師堂


 岩本寺で一番古いのがこの大師堂(約200年)。殺生を無用と考えた猟師が自分の胸に矢を射て、妻におこされると胸に矢が刺さった地蔵仏があったとされる矢負いの地蔵も大師堂に祀られているとのことです。


清流殿


 四万十川に因んだ名前と思う。


天井画2
天井画3


 終わりに、再度、本殿の天井画をお楽しみ下さい。m(_ _)m


36番 青龍寺(未)--道中--第37番 藤井山岩本寺--道中(未)--38番 金剛福寺(未)



宇佐大橋周辺の道(歩き遍路用) [四国遍路]


道中(番外・施設など)

遍路は地元の方への無財七施の修行の心で m(_ _)m。

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井ノ尻から青龍寺への遍路道:第35番清滝寺←→第36番青龍寺間

附)36番青龍寺←→37番岩本寺間の須崎市営巡航船



 僕がクルマで札所を回りはじめたのは昭和48年だ。その年に土佐市の宇佐大橋ができている。当時のドライブ用地図には既に宇佐大橋・横波スカイラインが載っている(国民宿舎土佐は建築中と)。今はなき横波スカイラインの料金所とともに、「竜の渡しバス停」・「竜の渡し」も描かれている。

 歩き遍路は近くて歩きやすい道が新たに出来てれば、旧遍路道を歩きたいと思っていない方は、そちらを選択する。宇佐大橋ができてから青龍寺への道は渡し船を使うこともなくなった。青龍寺公式ホームページ弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。お供をした8人を残している。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。と書かれている。

 今も宇佐大橋を渡り井ノ尻との分岐に旧遍路道への案内がある。土佐は遍路道が少なく残っている遍路道は荒れていると云われるが、見るところほとんどのお遍路さんは横波スカイラインへの道を選ばれている。いにしえの澄禅も歩いたのはその道でない。その道はもともとなかったのだ。今回は旧遍路道を歩いてみたのでご紹介(ほとんどの地図に道が示されていないのでGPSログをとりました)。

 その前に須崎市巡航船について。井ノ尻・青龍寺間の遍路道同様、ここの所船便を利用される方も少ないようです。下記引用のように浦々を結ぶ道が整備されていない頃は船が利用されていたようです。もし道があれば現在のものと違い山のほうにあり、浦々に降りていくようになっていたのでないでしょうか?埋立の船乗り場は、福島休憩所を過ぎて土佐市が須崎市になりバスターミナルがありその次、すぐです。

お遍路さんも巡航船に乗ってみませんか

 四国霊場三十六番札所・青龍寺から三十七番札所岩本寺への本当の遍路道は海の上という説もあり、空海も次に向かう際は湾を船で移動したそうです。
※岩本寺へは埋立~横浪間をご利用ください。なお、横浪から須崎市内中心部への路線バス等の公共交通手段はございません。


 埋立発は、7:05/10:05/13:47/16:00(2013/10月)のようですが変更もあったりご自身で確認を。

 前置きが長くなりましたが、旧遍路道。


青龍寺ルート


 青龍寺まで行っていない(^^;;;のですが、いつも歩くところに出てGPSを切りました。この地図向かって左の赤丸は須崎市巡航船埋立船乗り場です。また、細い線で追加したのは竜の渡しから遍路道への想像経路です(一応歩いてこのみちだろうと)。正直思ったほどはショートカットになってなかったです。


井ノ尻と横波スカイラインへの分岐点


 宇佐大橋を横浪半島に下りすぐ出てくる道の所。右に行けば井ノ尻から旧遍路道、直進すれば横波スカイライン方面です。地名は井尻・井ノ尻両方使われているようですが、今回ここの右手に井ノ尻の標識があり使用しました。


井ノ尻から遍路道への分岐点


 広い道をまっすぐに歩いていると標識が出てきます。もう少し行って曲がるんだよとの標識にも見えますが、ここを曲がります。なお、この道は歩き遍路のバイブル、空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人[地図編](へんろみち保存協会)に出てこず、歩き遍路お馴染みの道標マークは一切ありません。

 時に、この本の不備(距離が違う、場所が違う、旧遍路道でない)を耳にすることがありますが-道引大師にて- 宮崎建樹さんが亡くなられた事情(四国の道よ空よ海よ)(深津邦夫さん SLIGHTLY OUT OF FOCUS / ちょっとピンぼけ)に書かれている(下記引用)ように故宮崎建樹氏によって辿ることが可能になった旧遍路道も多く、改訂され続けてきた本です。歩いて安全な道を載せてくれているとの感想を述べられた方もいらっしゃいます。本の価値は失われていません。今後も改訂され続けることを祈っています。

■…四国霊場八十八カ所の遍路道。歩いて巡る「歩き遍路」が今ほど多くなかった約30年前から、2千本以上といわれる道しるべをほとんど一人で設置してきた。次男の世紀さん(41)によると、宮崎さんが始めて遍路道を歩いたのは1979年。肝臓の病気を患ったのがきっかけ。当時の道は雑草が伸び放題、歩き遍路用の地図はなく、標識も少なかった。「迷う人がないように」と松山市で寝具店を営む傍ら活動を始め、やがて「遍路道保存協力会」を立ち上げた。 会員は宮崎さん一人。ボランティアを集め、雑草除去や昔の遍路コースの調査と復元にも取り組んだ。道しるべは木のくいにペンキを塗っていたが、老朽化が早く、園芸用の鉄の棒にプレートをつけるようになった。
 90年には歩き遍路用の地図を始めて掲載したガイドブックを出版。麦わら帽子をかぶり、ロードメジャーで距離を測りながら実際に歩いて作った地図は、霊場間の道のりや宿泊施設の位置が丁寧に記されている。評判を呼び、版を重ねた今ではお遍路さんの「必携品」となっている。四国八十八カ所霊場会本部事務所の淵川法仁さん(56)は「細かく設置された道しるべのおかげで安心して歩けるようになった」と活動をたたえる。
 昨年11月8日、軽ワゴン車で出かけたまま行方不明に。山道で足を滑らせたとみられ、約1カ月後、松山市内の山中で遺体が見つかった。老朽化した道しるの更新、ガイドブックの改訂、やるべきことがまだまだあった。以上といわれる道しるべをほとんど一人継ぎ、協力会は有志が存続させる。生前の口癖は「自分は黒子だから」。宮崎さんがこつこつと設置した道しるべを頼りに、今日もまたお遍路さんが歩いていく。11月17日死去、75歳。…
m(_ _)m 謹んでご冥福をお祈り致します。依光次郎



旧遍路道への標識


 地元の方には、港(USA井ノ尻マリーナの名称 (^^v )への道であり、旧遍路道とは区別しているのだろう。遍路が歩く所が、遍路道であり既に旧遍路道だと思うのだが。でも丁度このお家からクルマが出てきて、止まって後200mで遍路道ですと教えてくれた方に感謝。


へんろ道井ノ尻入り口


 遍路道は道標通り左に。USA井ノ尻マリーナともお別れ。


丁石


 コケが迷わせますが、掘られているのは(青龍寺まで)「廿一丁目」です。


あと400m


 この道には100m毎にこのような立て札があります。右手にお墓が見られますが入り口から少しの間は右手に墓地があります。


雨で真ん中が流れた道


 登りはじめて、これで向こうまで行けるのかと思った箇所です。幸いここだけの印象になりましたが、折角整備した道の真ん中が雨で流されたようです。よけて通れるし、今なら横木を踏んで歩くことも出来ました。まあ階段は折角作っていても歩き遍路は横を歩くことが多くなると思います (^^;歩幅ガ合ワナイトネェー から支障はあまりないです。


あと300m

あと200m


 道の雰囲気が判って頂ければ。もう少しきつい所はありますが、通れない!!と思う所は全くありません。


峠付近


 他の所にある道標に竜井尻峠と表示されていますが、竜と井尻の間の峠であり便宜上最近付けた名前でないでしょうか?


唯一の眺望


 この道、ほとんど景色を見る所はありません。一ヵ所だけ遠望が利くところがあり絶景です、丸木のベンチも設置されています。この写真より広い範囲が見渡せますが、室戸まで見えるだろうと撮った写真です。室戸岬まで見える日はそう多くありませんので見ることができれば運の良い方だ。


丁石


 峠から500m下ったところにある丁石。写真を撮る時は九丁目とハッキリ判読できるとだけ思ったものですが、新しいもののようです。ここまで平坦な道だけでなく下りが急で杖があって良かったと思うところも少しありました。


里へ


 ここに来るまでに道のすぐ下に家の屋根が見える所もありましたが、平坦な道で下りきったと実感(そう大層な道でもないが・・・)。


青龍寺への道


 ここは青龍寺に行くクルマも通るところ。写真とログを撮ろうとやってきたのでもう良いかとお寺には行かず帰りました。

P.S.
 土佐路は旧へんろ道がすくないとお嘆きのあなた。標高100mの山越え1.2Km強、いかがですか?


35番清滝寺(未)-----道 中-----36番青龍寺(未)



坂本屋(三坂峠) [四国遍路]


道中(番外・施設など)

遍路は地元の方への無財七施の修行の心で m(_ _)m。

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四十五番岩屋寺←坂本屋→四十六番浄瑠璃寺間



 久万高原町と別れ松山市に向かう時、三坂峠を一気に下らなければならない(今年2012年は歩きの方でもかなりの方々が逆打ちをされて、登られたようだ)。峠から坂への入り口には京都の方が立小便をする自由を謳った標識を建てられていたが、残念(^^;除かれていた。逆に云えば、トイレがなく不自由なのだ。へんろ道保存協力会による地図(第9版)では47番札所八坂寺までないことになっている。46番浄瑠璃寺にも納経所の横にあるのでお寺に行けば問題ない。

 そこまで辛抱しなくとも(立小便をせずとも)、トイレは地図に載っている坂本屋さんにある。明治に建てられて、昭和の初めまで営業されていた。その後昭和16年に有志の方々が手を入れたようだ。現在は松山市が管理されているようだ。しかし、通るたびに(それまで二回しか通っていないが(^^; )入り口も、雨戸もしまり中の様子が判らなかった。

 今年通っているとバンが一台停まっていて、坂本屋さんの中を見ることが出来た。カメラを持っていないので残念だと思ったが、携帯電話を思い出した。一枚撮影して充分に取れないと諦めたが、気になっておられる方もいるだろう、折角だお見せしよう。
m(_ _)m参考程度ニ


坂本屋.jpg



 それでバンの方と少し話すと、昨日NHKのロケがあったという。ドキュメントですかドラマですかと尋ねるとドラマだという。その方は後片付けのために来ていたのだった。翌日札始大師堂で三坂峠の上で一緒になって前後して歩いておられた方と話していると、年輩の自転車遍路さんがやってきた。その方の話では、宿坊で泊まっていると何時もより早く出てくれと云われ、NHKドラマのためだった。誰々が出ていて歩く歩く云々というドラマだとのこと。誰々の中に"いしだあゆみ"がいた。

 自宅で早速「NHK 松山ロケ いしだあゆみ」でググってみると、歩く、歩く、歩く ~四国 遍路道~がヒットした。来年BSプレミアムで放映されるらしい。この番組の御蔭で坂本屋の内部を見ることができました。感謝。しかし、階段を上ったお部屋に泊まってみたいですねぇ。

 あのぉー、NHK様。意識不明になっていた病気放浪遍路って役ないですか?いしだあゆみに介抱されて気がつくと一言「あんたって、きれいやなぁ。」って云いたいのですが・・・。(昔火事現場から意識がないと運ばれた方が、女医さんの呼びかけに反応して最初に一言「あんた、美人やねぇ」と。気道熱傷など心配していたスタッフも、その声とのど・胸に痛みがないと安心、熱傷もあり観察入院となりました。女医さんによればその方は患者として通院されたこともあり絶対に受け狙いだったと。いえ、美人でしたよ。)

 オッと話がずれた。昔のお宿、坂本屋さんにはトイレがあります。松山よりの所を奥に入って下さい。

P.S.
標識の写真を根性で探しました。


P9241627.JPG


この写真を入れて「三坂峠」の標題で考えたのですが・・・。
別物になってしまって、再度書く根性はなし。堪忍。


四十五番岩屋寺(未)-----道 中(未)-----四十六番浄瑠璃寺




第六十四番札所 石?山前神寺(金色院) [四国遍路]




第六十四番札所 石?山前神寺(金色院)



<<住所>>愛媛県西条市州之内甲1426
<<電話>>0897-56-6995


<<本尊>>阿弥陀如来
<<開基>>役行者小角
<<宗派>>真言宗石?派
<<御詠歌>>前は神うしろは仏ごくらくのよろづの罪をくだくいしづち

<<駐車場>>あり(30台無料)
<<宿坊>>なし


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 申し訳ないが、本ページの?は「金+夫」である。第三水準の漢字のようで以後この漢字を使用すべき所にも「鎚」を使用する。石鎚とスッと読めるほうが楽だろう。


あちらこちらで良く見られますが(^_^)


 木魚をあたまに休まれる小坊主さんをトップに持ってこようと思いましたが、あまりにも目に付く像なので、ひっそりと隅のほうにいらっしゃるこちらを。でも、後述の階段下にある像で、石鎚と前神寺の関係を見詰めてこられたと思う。


日野駒吉氏像


 墓地の一角にいらっしゃる日野駒吉氏の遍路姿。台座にも記されていたが四国五十度、小豆島百度、石鎚登山百度巡拝された地元西条の方である。オレは、ワタシは、それ以上回ったと仰有る方もいらっしゃるだろう。でも、この像は記念に講中の人々が建てたもの。他の方々が建てよう!!という気持ちにさせる方だったのですね。写真を撮った時は載せることはないだろうと思っていましたが、講中の方々が建てたと知って、参道を歩いているとまず目に付く像でもあり尊敬の念を込めて。


鐘楼


 境内に入って右手側、なかなか大きく立派は鐘楼です。


木魚を頭に眠る小坊主


 ネットで見ると第二番極楽寺(双熊堂本舗さん)・高野山(季節のアルバムさん)にもあるようですね。ネズミが居るので雪舟かと思いましたが、調べると柱に括りつけられていたようで違いました。前神寺さんの疲れ小坊主君は、本堂・大師堂に行く前に遇えるので目立ちます。


大師堂


 境内に入ってチョット遠目ですが正面に大師堂があります。左手の建物は庫裏・納経所です。実は最近20Kmほど歩く練習はしているのですが、勤務体系がチョット変わり数日掛けての歩きが難しくなって写真だけを撮るために札所廻りをしています。納経をしないので写真だけ撮っていましたがチョット違和感がありました。三間龍光寺からお参りもするようにしました。遍路の時と同じく本堂・大師堂だけですが、気分的に違和感が減ってグッと楽になりました。しかし見ていると一人か二人連れのクルマ遍路さんって参拝を端折っておられる方が多いようです。


金毘羅堂


 同じ「権現」様だからでしょうか。金毘羅さんが祀られていました。本堂に向かって右側にあり、奥には大きな石版の修行大師像(大正五年三月吉日)もあります。


穴薬師


 反対側には穴薬師。薬師如来と地蔵菩薩が祀られていました。



華蔵


 また本堂に向かって右側にあるもの、石碑ですが「華蔵」と読めます。パッと見には「華厳」かと思いましたが・・・。後の字の右下処理が「蔵」のほうだろうと考えました。それで・・・、華蔵って何?


水子地蔵


 今日(2012/09/07)川之江池田間のドライブインで、宝塚の方から水子供養についてお説を伺いました。それまでは、札所全体にこれほど水子地蔵が要るのかと思っていましたが納得です。お接待するつもりで昼食を摂られたかどうかお聞きしたのに、こちらがご馳走になって申し訳ございませんでした。m(_ _)m >宝塚の方

 高校の先生で生徒が妊娠して、堕ろすことを勧めたならあなたも責任があるかもしれない。菅さん菅さん、あなたが首相であった時経済的に恵まれず堕ろさざるを得なかった責任はあなたにもあるかもしれませんよ。勿論必要以上にお金を蓄えてしまったあたなにも・・・。会社のために若者の首を切ったあなた・・・。宝塚の方の説を拡大解釈しましたが、確かに。


十三仏


 十三仏とは、中国で亡くなられた方の審判を行う十王(その内の一つが閻魔王)思想に基づいている。中国で冥界信仰の場である泰山に由来する泰山王もいる。その十王に仏陀・如来・菩薩を本地させ(例えば閻魔王は地蔵菩薩・泰山王は薬師如来)、日本で蓮華王(阿?如来:?はシュク)・祇園王(大日如来)・法界王(虚空蔵菩薩)を付け加え十三体にしたもの。

 十王は道教と仏教の合作による「閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経」によるらしいが(Wikipediaによる)。元来の仏教にはなかったもの。また、荘子の考え方とも違うようだ(老子って死後を語ったっけ?)。また、阿?如来と大日如来が加わったのは真言宗によるものだ。浄土真宗では浄土に成仏するとキッパリと否定されている(しかし女房殿は浄土真宗だが、追善供養をしたなあ・・・)。判らないことを書くなって?自分で調べてよ。自分で信じてよ。

 本堂に向かって右側、浄土橋の手前にあります。


滝不動


 浄土橋を渡らなくても見えているが、橋の本堂側にある。流れてくるものが着色して行くのか良い雰囲気になっている。実はこの後豪雨に見舞われるのだが、残念雨具を準備していなかった。カメラは雨に強いと定評のあるオリンパスE-3だから雨の写真は望む所だったが・・・。


弁財天


 不動の右手に小さな祠が二つ。手間にあるものは弁財天を祀っている。


稲荷社


 弁財天の奥に小川(浄土橋で渡る)に接してある祠はお稲荷さんだ。


本堂遠景


 階段を上ると本堂が見えてくる。左右の長い回廊は昨年か一昨年に付け加えられた。


護摩堂


 護摩堂では不動明王を祀っている(護摩堂って不動明王か愛染明王を祀ることが多いらしい)。


薬師堂


 穴薬師もあるが、薬師堂もあります。まあ穴薬師のほうは地蔵菩薩とご一緒だし・・・。


石鎚権現堂への階段


 前神寺の「神」は石鎚の神であり、神変大菩薩(役小角)が山頂で修行中蔵王権現を感得し、石鎚山に鎮護国家・仏道修行の道場を開山した。その後上仙道人が山頂への道を開いた。桓武天皇が病気の折「南海に霊峰あり石鎚蔵王大権現鎮座のところ霊験あらたなり」と聞いて、勅使をはしらせ病気平癒の祈願をさせ病の経過が良かった。そこで七堂伽藍を建立し金色院前神寺とした。

 空海も石鎚に登り求聞持法を行い霊場に指定したとされる。石鎚山山頂近くの成就に前神寺の出張所があり奥前神寺と云い、本来の札所はそちらであるが、遍路の訪れるのは里前神寺とされていた。

 ところが明治維新の廃仏毀釈により、里前神寺の境内・建物・参道・寺領全て没収となり、石鎚神社が設立された。その際前神寺住職大律上人が信仰の中心石鎚大権現を奉じて現在地の末寺医王寺に札所を構えたが前上寺(神の文字使用を禁じられた)と称さなくてはならなかった。そして信者の力ですべてを新しく作り直し昭和22年真言宗石?派前神寺として独立した。だから江戸時代までの前神寺は現石鎚神社である。ちなみに当時の奥前神寺は現成就社であり、今の奥の院奥前神ははじき出された感じであると云う(四国八十八所遍路 愛媛・香川編 宮崎忍勝・原田是宏 P78)。

 また、昭和42年漏電により本堂全焼し昭和47年現在の本堂が完成するまで御本尊阿弥陀如来は階段の上の権現堂に安置されていました。折角の石鎚参拝、是非権現堂のほうへ。上から見ると本堂は拝殿と本殿のある神社様に見えるから面白い。


石?権現堂


 これが階段を上った所にある石?権現堂である。


前神寺本堂


 石鎚山に参拝する前に前神寺の御本尊に祈願して登るとされていた。

 書くのも疲れたが・・・、前神寺と横峰寺の関係を。東の遙拝所前神寺、西の遙拝所横峰寺となるので、それですませば良いがもう少し。小松藩の横峰、西条藩の前神であり境界紛争もあったようだし、石鎚山との関係(別当寺)も問題になったようだ。一言で云えば御本尊を見れば判ると思う。空海修行に関係深い横峰、石鎚に関係深い前神寺ってことだと思う。


土砂降り


 本堂で参拝していると激しい雨音が・・・。幸いお坊さんが軽トラで来られていたので出てくるのを待って庫裏まで乗せて欲しいとお願いした。彼も権現堂での勤めがあるが傘がないと行けないので一度帰るつもりだったと庫裏まで送ってくれた。その後、軒下で雨宿り。その折りに、送って貰ったお礼に前神寺の記事を書こうと思ったので。m(_ _)m


63番 吉祥寺(未)--道中(未)--第64番 石?山前神寺--道中(未)--65番 三角寺(未)





一心庵(土佐清水市下ノ加江)さんには「売家」の張り紙 [四国遍路]

一心庵(土佐清水市下ノ加江)さんには「売家」の張り紙

 2012年 4月 5日、僕は下ノ加江海浜公園でテント泊をして足摺岬に向かっていた。昨年は金剛福寺からお遍路をはじめたもので、無事終わったお礼参りだ(全部を回りきる前に大日寺からつないで岩本寺からも歩いて来ていたがお礼参りとして来たくなり、伊豆田トンネル手前でやめていた)。

 一昨年1日 8Kmの行程ではじめた歩き遍路だったが、一日24-25Kmは歩ける様になってきた。強い痛みに堪えながら歩いていたが、徐々に強い痛みは減ってきた。軽い痛みは続いているが、辛抱できなくなってしまう45分ほどは割と気楽に歩き続けることが出来るようになっている。時間を充分にとれば、30Km近い距離も可能でないかと思っている。

 例えば一昨年伊豆田トンネルを歩いた時、トンネルの手前で充分足を休めて入ったが、通り抜けるまでに痛みが楽になるまで四回休まざるを得なかった。立ったままだと楽になるまで一回当たり10分はかかる。だから長いトンネルを何時抜けることが出来るのかと絶望に近い思いをした。それが今回、伊豆田北坂でバスを降りてレストラン水車横の休憩所まで休むことなく歩けるのだ。v(^_^)

 しかし、今でも45分前後で休まないと、痛みと痺れ感で足が動かなくなる。そうなると一昨年と同様だ。どこでも座れそうな場所を見つけて休まなくてはいけなくなる(もっとも一昨年は待ったなしになるので、イスパックを購入した)。座れそうな場所を見つけるのは慣れている。乾いた側溝なら足を下ろして座り込む、探してみるとコンクリートの階段が海や川、山に向かって結構あるものだ、人が居る所で、それなりに座れそうな所があれば声をかけて断られることはまずない・・・。

 この時もそうだった、足が痛くなっていた。風も強いので笠の紐をもう少し絞めておきたいと、どこかないかと見ると国道からチョット離れた広場に椅子がある。迷わず座りに行き笠を外し紐を直そうとした。そうしていると道の向こう側からご年輩の女性が来てくれた。

「笠が壊れたのですか?」「宜しかったら、これを。」と錦の納め札とオロナミンCを頂戴した。正直、錦の納め札は好みでない。(^^;今までにも二回頂いたが、それをありがたがる方に差し上げた。でもお接待の錦札、丁寧にお礼を云って話はじめた。「どちらからですか?」バスに乗ったのは宿毛からだから、正直に地元宿毛ですと答えた。「私も随分クルマでお参りさせて頂いたが、本当に歩きの方は大変ですね。」「お遍路さんのために一心庵と云う所でお接待させて頂いていました。今でもトイレは開けてあげたいのですが・・・」ここで、エッと思った。

 一心庵さんは伊豆田トンネル・ドライブイン水車とともに下ノ加江近郊の目印になる所だった。国道から行くと下ノ加江の家々を通過し右折、橋を渡り国道が左にまわる所にあり、そこは旧遍路道との交差点であり旧遍路道(中村・三原両方)を通ってきても一心庵の前を通過する。白い建物自体も目立つが、お遍路案内所休憩所とともに一心庵としっかり書かれている。評判も良く宿泊や立ち寄る歩き遍路さんが多いところだった。前日海浜公園に行く前に寄ってみたいと思っていたが、「売家」と張られていた。僕は残念な気持ちになったものだ。

 道隆さん(隆は旧字体が本当と)のことは山陽新聞 得度女性営む無料休憩所に写真付きで紹介されている。起業したこともある。それを整理し、インドを旅し、50歳を超えて、たまたまバスツアーできたお四国にはまった。そして遍路をはじめて十数年前に得度した後、無料休憩所を考え、借家を探して、現在地に落ち着いた。休憩だけでなく、請われれば宿泊も。食事に翌日の弁当まで付ける。とあるので一心庵はご自分のものではなかったようだ。他のサイトによると開業までに牟岐町駅前の旅館「あずま」で一年間女将さんと生活をともにしたようだ。自らも車の遍路を続けながら、遍路のために生きる。ことにしたが、人を泊めたりすると責任があるから、いい加減にできません。大変です。余生は山にこもろうかと話しておられる。いずれは一心庵も閉じる気持ちがあったのかもしれない。僕は一度も立ち寄っていない(歩きの一度目は安宿さん泊まり、この時が二度目)ので、今回は寄ってみようと思っていたのだ。「売家」の張り紙を見て、宮城県気仙沼ご出身、震災があり故郷に帰られたのか?ご縁がなかったと思っていたのだ。

 僕が休憩したばかりに、わざわざ国道の向こう側からお接待に来てくれたのだ。感謝感激である。一心庵さんは売家になっていますが、庵主一心庵道隆さんはお元気で土佐清水市にご在住です。そのことをブログに書いて構いませんかと尋ねると、ネットではほとんど発信しなかったが皆様にはいろいろ書いて頂いた。どうぞ、書いて下さいと自然体。道隆さんの錦の納札、納経帳に挟んで一緒に回らせて頂きます。

P.S. 明日から三回目(二回目は膝を痛めて半分ほどクルマ)の歩きをはじめます。


眞念庵 [四国遍路]

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眞念庵

 この夏土佐清水に行くことになり、遍路として眞念庵を訪れたかった。実際伊豆田トンネルを抜けて右折、三原村への道で眞念庵を探した。眞念庵納経所があり、すぐ近くだ、レストラン水車からも道があると教えられた。その時は三人連れで、他のお二人もお四国には興味を持たれていたが(一人はヒッチハイクO.K.の若い遍路さん)、中途の寄り道であり行かなかった。納経所の息子さんが母親を呼び出してくれたので申し訳なく、お参りはまた必ず来るから納経して頂けるかと尋ねると、何時でも良いが出来ますとのことでお願いした。

 今回必ず眞念庵に参拝と思って、昨日ドライブイン水車近辺の駐車場にクルマを置いて伊豆田トンネルよりの標識に従って山に入った。ドライブインで昼食と思っていたが定休日の看板で食べずに山に入った。(以下写真と説明は後日追加しました。本文と重なっています。)


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 この写真右に写っているのは国道56号線。順に打っていると、伊豆田トンネルを抜けてむこうからこちらに歩いて来られるのだ。白っぽく見える車道も左のほうに向かい、歩きは階段を上る。


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 倒木があったが、越えて行かれる方々の痕がはっきりとしていた。


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 石は碑でなく、墓である。故郷を捨てた遍路でなければ、墓は故郷に造るだろうと思った。合掌。下に書いている分かれ道はここかと思うがハッキリしない、スマン。


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 細い道を登って行った時の道。さらに登ると左手のほうからの道のようなものもあったが、空腹感が強くなり戻ることにした。ひだるの神は怖ろしい。

 道しるべは結構あったが、道が二つに分かれている所からなくなっていて困った。左のほうが広いので、いにしえの主な道ならこちらと行ったが、広い所に出てチョット見には先がないようだった。もどって狭いほうはドンドンと登って行くし、クルマから離れて行く。下を見ると結構奥まで来た感じがする。尾根までもう少しになったがチョット低血糖気味になり、無理をして道に迷ってはと戻った。本当に国道の近くには道しるべがあるが、少し奥には(僕が別の道に入り込んだのでなければ)標識がなかった。


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 三原へ向かう道でクルマも通ることができる。道沿いにある案内柱。180m、ここまで来ることを考えても旧遍路道にこだわらなければ、こちらが楽。


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 真念庵に向かう途中の看板。真念が地蔵大師堂を建立し、この地蔵大師堂はいつしか真念庵と呼ばれるようになり、庵の前に四国八十八ヶ所札所の本尊石仏を設置し、三十八番札所足摺金剛福寺巡礼の打戻りの宿や荷物置場として利用されるようになりましたとある。トイレがあればテントは張れる(最近の山屋さんは携帯トイレに慣れたようだが・・・)。


 そこで今日は納経所があった村から登ることにした。クルマで納経所のお家を過ぎるとすぐに左眞念庵右延光寺の石柱が立っていた。眞念庵まで180m、昨日のことを思うと楽勝である。実際道も良く(昨日のほうが遍路道の雰囲気はある)すぐに着いた。


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 やっと辿り着きました、真念庵。


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 釣鐘を撞かないでと書かれている札所に、このようにリンがあっても面白いなと思いました。


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 八十八ヶ所御本尊石仏。歳月を感じるが、所々に花があって感激しました。しかし、今造花?と思ってしまった。触っていないので不明。


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 真念庵から諦めた旧遍路道が奥にむかっている。こちらは結構広い。この広さの道が続いていれば迷うこともないだろうが・・・。

 屋根なども昔からある建造物ってことはなく、やっとたどり着けましたと参拝。しかし、眞念庵の周辺の雰囲気は非常に気に入った。今回は遠慮したが(また昼食前になってしまった)、奥に行く道も竹藪に囲まれて広い。

 何より良かったのはミニ八十八ヶ所。二列に整然と並んで、所々に花が置かれている。参拝者が持ってきた可能性もあるが、花の種類・数から地元の方々が今も参拝されているのだろう。本当に気持ち良かった。

 歩き遍路は基本的に寄り道をしたくない。疲れているし、足の調子も万全でないかも知れない。でも、歩き遍路のリーダー眞念さんに感謝の意を表するに、伊豆田トンネルを抜け右折すればそう遠くない所に眞念庵はあります。そこからは足摺には来た道でも良いし、僕が迷った足摺街道(旧遍路道)へのチャレンジでも良いのでは(僕が歩いていた道が正しければ下道よりはチョットきつい)。

P.S.
この記事はいずれ写真を加えて書き直します。 m(_ _)m

P.S.
小さくした写真が行方不明となり、オリジナルはNASにあるのですが選んでリサイズすることが面倒だなと思ったまま放置していました。久しぶりに札所の紹介(観自在寺)でもと思った所、出てきましたので約7ヶ月ぶりに写真を追加しました。書き直しでなく、説明追記のみで堪忍。m(_ _)m

タグ:真念庵

四国八十八ヵ所は88ヶ寺? [四国遍路]

八十八ヵ所は88ヶ寺?

 ある民宿に泊まっている時、後藤典重著「歩き遍路の独り言-四国八十八箇所遍路旅 あなたも歩ける四国遍路みち1200キロ」(新ハイキング社、2006)が置いてあった。読んでいると須崎番外札所大善寺住職との会話が書かれていた。・・・何と納経を出来た寺数は、八十八ヵ所以外に七百ヶ寺近くある・・・と云っていた。とあった。もっともこれを記録したのは、この数はお寺さんだけでなく神社仏閣など札所の数だろうと思ったからだ。そこで二枚の写真。


右に四国霊場札掛、左に四国番外霊場佛陀懸寺とある。




真言宗御室派札掛山佛陀懸寺



 大洲に向かって鳥坂(とさか)峠をほぼ下りきった(国道に出てもまだまだ下るよとは云わないで (^^; )札掛にある佛陀懸(ふだかけ)寺の最近の様子である。お寺のことは札掛大師復興記やawatennbouさんによる「間口は広いが奥行き無し」の札掛寺および佛陀懸寺再訪に詳しく事情が書かれているので御覧頂きたい。

 へんろみち保存協力会による地図に表示されている番外霊場を実際に訪れてみると、エッこんなのと思うことはここだけではない。勿論立派な番外霊場もあり一概には言えないが、あまりにも88ある番付札所との差が大きいと感じてしまう。例えば、この仏陀懸寺を管理しているのは61番札所香園寺、別格霊場 7番出石寺、地元の管理人だそうだ(Subject: 高見宏史氏のことを話そう)。香園寺・出石寺ともにその気になれば充分に管理できる財力をお持ちと思うが、賽銭・納経代が少なすぎて実施が困難なのだろう。そうなると遍路のほうの問題になる。

 どうも、お四国を回った=八十八のお寺を回ったってことになってしまったようだ。そこで浄瑠璃山石見寺(四万十市公式ホームページ四万十市観光情報)を見ると、このお寺は四国88ヵ所巡礼の元第39番札所とある。オイオイ宿毛市(延光寺がある)と争ってもと、真念「四国遍路道指南」を見ると卅九番寺山院 山をうしろにし南むき。はた郡中村。とある。道中は間違いなく宿毛平田の寺山延光寺であるが、南むきで中村とくれば元39番札所と云いたい気持ちは判る(もっとも江戸時代の本堂の向きがどうかは知らないが・・・)。少なくとも、XX番札所と明記したのは真念であり石見寺が第39番札所であったことはないだろうと思う。

 では、「四国八十八ヵ所」とは何なのだろうか?辺路の頃は置くとして、頼富本宏著「四国遍路とはなにか」(角川選書454、角川学芸出版2009)によれば「世間流布ノ日記」なる書物があり四国遍路日記(澄禅)の後書きに札所八十八ヵ所、道四百八十八里、河四百八十八瀬、坂四百八十八坂、と記事を引用されているようだ。アッ、この「世間流布ノ日記」と「四国遍路道指南」で「八十八ヵ所」が異なるとあり、石見寺が(明確な「番付」は真念だが)三十九番目に記載されているのだろうか?「世間流布ノ日記」は現存せず、同じ系統と考えられる奉納四国中辺路之日記には「前神寺」のかわりに「石つち山」があったとのこと、やはり番付はない。(因みに澄禅さんは八十八ヶ所の札所には辺路を使い、他の札所は巡礼としていたようです。)

 ここで「八十八ヵ所とは」を整理しておきたい。まず「八十八」と云う数字だが、1.見思の惑(三界生死の苦諦を招く煩悩)の八十八使に基づく、2.男性の厄年・女性の厄年・子供の厄年を足した(42+33+13)、3.「三十五仏名札懺文」と「観薬王薬上二菩薩経」の仏の数(35+53)、4.天竺の八大仏塔の数を十倍し元の八を加えた、5.米と云う字を分解して八・十・八とした、6.熊野九十九王子からの影響、7.日本古代民族聖数(八)由来などの説があり全く不明である。(この項、頼富本宏著「四国遍路とはなにか」より依光改)ここで注目して欲しいのは1.から5.は先ず88と云う絶対的な数字があり、6.7.は必ずしも88と云う数字にこだわらないということだ(熊野九十九王子は実数ではない)。九十九王子は多いよってことであり、大江戸八百八町も多いよってことだ(実際両者とも実数のほうが多い)。ここで、もう一度「世間流布ノ日記」で澄禅が引用した所を見て欲しい。八十八里・八十八瀬・八十八坂であり、これは多いよってことだろう(因みに四百は八百にすると多いので半分に? (^^;違ウカナア)。多くの札所・霊場があり「八十八ヶ所」の言葉が生まれて、その後88ヶ所となったのではと僕は思っているのです。

 また(ここで証拠を出せないのが残念です)、元四国八十八ヵ所のひとつだったとされるお寺がいくつもある本?パンフレット???を見て、そんなバカなと思った記憶があるのです。元来「八十八ヵ所」とは四国にある多くの霊場を示していたと私には考えられ、浄瑠璃山石見寺はその一例に過ぎないと。「八十八」が江戸初期には具体的な88と云う数字、いや、もう真念さんが決定的に(順にですが)番付してしまってほぼ決まったお寺(神社)になってしまったと。

 やっと元に戻りますが、四国八十八ヵ所霊場会所属のお寺( (^^;回ラレタ方ハ御存知ノ 公式ホームページに写真のないお寺がひとつありますが・・・ )のみでなく、またこちらも回ると108ヶ寺になるとキャッチが巧い四国別格霊場二十番でも満足なさらずに、多くの奥の院・番外霊場を参拝されてはいかがでしょうか。がっかりすることもあると思いますが、そこで唱える般若心経こそ身に沁みます。

 弘法大師が泊まられていて、衛門三郎が訪れていた時にはすでに旅立たれた後だったと云う衛門三郎伝説の「札始大師堂」の写真を最後に。m(_ _)m
1Km戻ラナイト(大蓮寺089-963-2769)御朱印ガ頂ケナイ(T_T)


札始大師堂


白翁山歓喜光寺(曹洞宗) [四国遍路]



道中(番外・施設など)

遍路は地元の方への無財七施の修行の心で m(_ _)m。

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白翁山歓喜光寺(曹洞宗):第39番延光寺←→第40番観自在寺間




階段脇のお大師様(大師堂の横からは正面から拝める)




 僕の生まれは宿毛市である。伯母が篠山好きで時々行っていた。篠山は高知と愛媛の県境にあるが、江戸時代に宇和島藩と土佐藩の境界争いがあり、篠山神社・篠山観音寺(現在は観音寺跡)などは微妙に土佐藩のほうにあったのか、「宿毛市」となっている。

 現在は、寺山(延光寺)から橋上に出て松田川沿いに遡り楠山から篠山に登る道もあったり、国道56号線から正木に入り篠山に向かうことも容易である。でも江戸時代は松尾峠越えだけが遍路の道であり一本松町札掛から正木に向かったらしい。真念のガイドブック(^^;に出てくる「戸たてずの庄屋」は県境(江戸時代なら国境)の篠川沿いにあるから結構戻らなくてはならなかったことになる。

 その篠山観音寺の本尊が、正木の勧喜光寺にあると知って宿毛のものなのにと思っていた。今日勧喜光寺に行ってみて、このご本尊は愛媛のもの、正木のものだとつくづく思った。

 僕は「戸たてずの庄屋」って単にお遍路さんへの善根宿、夜遅くなってもいつでも休まれて良いですよ、のことだと思っていたのだ。現地に行ってみると「戸たてずの楠」として看板で説明されている篠山に関する逸話があった。

 土佐は廃仏毀釈の激しかった所だそうだ。もし、そのために篠山観音寺が破壊され勧喜光寺に移ったのなら、札所としての篠山は宿毛のものとは絶対に云えない。「戸たてずの庄屋」の話もあり正木のもので結構です。

 えっ、「戸たてずの庄屋」って何かって。真念さんも現地で聞けと書いていたので、松尾峠を通らず国道56号線を行かれるなら往復10Km位だけど現地の看板を見られては。
(^^;

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戸たてずの庄屋


 歓喜光寺には県道からひとつ道を入って行く。狭い道なので車は県道に邪魔にならないように駐車する。すぐに「戸たてずの楠」の看板があり「戸たてずの庄屋」の意味が判る。建物は文化財として保存されている。


歓喜光寺への入り口


 戸たてずの庄屋の黒い建物が終わり白っぽい塀になると、その奥に歓喜光寺がある。山門の向かって右側に「曹洞宗」、左側に「白翁山歓喜光寺」とある。実はわが家は臨済宗であるが、本来曹洞宗である。しかし、お寺がなくなり現在の東福寺派の臨済宗にお願いしているらしい。なくなったお寺は宇須々木にあったとなっているが、家は旧く徳川家光の病気の際米を見舞いとして差し出し感謝状を貰っていた。だから江戸時代より前からあった可能性もある。そうなるとなくなった「曹洞宗」のお寺のひとつの可能性として歓喜光寺もあるかとフッと思う。実際正木と山北(篠川の対岸、土佐領)は密接な関係がある。古い古い過去帳があれば見てみたいものだ。


篠山大権現の石柱


 お寺にはいると正面に本堂、右手に庫裏がある。篠山関係は左側にあり、大きな石柱が並んでいるのが目にはいる。その右側「篠山大権現」とある。


大師堂の中


 石柱のさらに左側に大師堂がある。物置になっていたと書かれたものもあったが、新しくなっているのか内部も整然と祀られていた。もっともお寺に入ってすぐに大師堂に参拝した。中がどうなっているのか気になったので、この写真を撮ったが肝腎な大師堂外観の写真を撮り忘れた。m(_ _)m


弁天堂


 大師堂の横に、お大師さんの像(一番上の写真)がある。そのさらに左側に弁天堂がある。篠山には天狗堂があったとのことで、それかと思ったが違った。


趣のある階段


 権現堂には階段で登って行く。里にあるお寺から少し離れる雰囲気がある。決して長すぎる階段ではなかった。


権現堂


 旧篠山観音堂の十一面観音は、この権現堂に納められている。権現堂は完全な神社建築であり、神式に祀られた格子の向こう、本殿に納められているようだ。神仏混合の篠山らしくって好感が持てる。土佐の廃仏毀釈から逃れ、因縁深い戸たてずの庄屋の基に戻ってきたのだろう。


以前の権現堂の跡



灯籠には明治二十二年とある



 権現堂は新しく、古い基礎がそのままあった。もっとも、この基礎も明治以降のものと思われる。本当に観音様は帰るべき所に帰ったと思います。いずれ篠山に帰ることがあっても、その時はまた行ってくるよって感じなのだろう。


第39番延光寺(未)-----道 中(未)-----第40番観自在寺(未)



P.S.
 本記事は携帯電話から投稿しました。その際写真を加えてカテゴリーを変えるつもりでしたので、携帯投稿分を削除します。nice!をくれた方には申し訳ございません。m(_ _)m

番外札所 香雲山満願寺 [四国遍路]

番外札所 香雲山満願寺


道中(番外・施設など)

遍路は地元の方への無財七施の修行の心で m(_ _)m。


三十九番延光寺← 香雲山満願寺 →四十番観自在寺寺間


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光雲山満願寺 御朱印

 へんろ道は時代とともに変化する。その為に、嘗て栄えた札所も時代とともに衰退した所も多い。江戸時代の遍路ガイドブック「四国遍路道指南」に登場する、この光雲山満願寺も、すでに荒れて修理が必要と真念が書き残している。もっとも、昔は「香」雲山満願寺であったが、現在は臨済宗の「光」雲山満願寺となっている。御朱印を貰うと光雲山満願寺とあった。以後へんろ記事らしく香雲山で統一するが、折角の御朱印。この項と次の寺前シーンでは光雲山を使用する。

 なお、この記事を書こうと思ったのは「宿毛街道」が満願寺に集まるようになっているからである。(依光は宿毛出身です m(_ _)m 。)


光雲山満願寺 寺前

 現在は臨済宗妙心寺派 光雲山満願寺が正式名称になっている。「いもりも 蛙も 仏の子」・・・どこかで読んだ記憶があるのですが・・・、記憶違いかなあ。


本堂前景

 さすが禅寺らしくスッキリしています。御本尊は観世音菩薩。この時点では納経をしていなかったので、記憶では薬師如来だったが・・・と。文献的証左で頼みの四国遍路道指南が見あたらず、予陽塵芥集をみると「満願寺 同村 本尊薬師行基作 弘法大師草創の旧地にて伽藍大なる霊場たりしか 次第に衰微して名のみ残りぬ」とあります。十八世紀後半には名のみ残りぬだったのですね。なお、引用の同村とは岩渕村です。

 実はわが家は臨済宗なのですが・・・、違うかなと思いながら開経偈と般若心経を唱えました。


本堂前の高台を望む

 上の本堂を撮影している背中のほうに、一段と高い土地があり簡素な山門とお堂が見えました。


薬師堂(と私が命名しましたが・・・)

 お堂の前の立て札には「愛媛県 有形文化財 岩渕満願寺蔵 薬師如来像 昭和四十三年三月五日県指定 津島町教育委員会」とあります。これこれと、開経偈からはじまるフルセットを唱えました。オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカは病気持ちの私には必須です。


大師堂?

 薬師堂の左手に、何も書かれていないお堂があります。お馴染み「弘法」の額もありません。でもお屋根の形が大師堂でよく見られるもの。大師堂と考えてお参りしました。

 その後、webにありましたが間違いなく大師堂で宿泊可能だそうです。篠山道・中道沿いにはお宿がほとんどなくありがたいことです。

 まあ、とにかくこのお寺さん、札所でお馴染みの納札箱もありませんし、幟も一切なし。禅宗系の潔さよさが心地良いです(なにせわが家は臨済宗なもので・・・)。


二重柿(子持ち柿)

 このお寺で有名なのは柿の中に柿がある(タネの中にもタネがあるそうです)二重柿。柿が衰えてきたので、樹医が頑張ったとの報道もTVでみたような気がしますが・・・、暑いアツイ日に行きましたが元気そうでした。

 その他、以下のものが昔の札所を偲ばせてくれました。


御姿が着物でほとんど見えませんが・・・


六体の仏様(webにて「六地蔵」とあり)


石碑

 お寺の住職は教職を兼ねておられる方て、中々お会いできないと書かれていた方もいらっしゃいますが、私は朝一番でお参りしたので納経していただきました。お会いできた方はどなたも書かれていますが、親切丁寧にいろいろお話して下さいます。奥さまが冷たいお茶を持って来て下さったのには感謝。冷凍されている二重柿も見せていただけるようです。もっとも私は松尾峠越えを涼しい間にと思って、途中で話を切り上げさせて頂きましたが、岩松に戻った時には宿毛発の宇和島バスが岩松を通過した時間を過ぎていたので、暑さもキビシク、今回はここまでと・・・、宿毛行きのバスに乗ってしまいました。どうせバスに乗るのならゆっくりしていけば良かった。
(^^;

 さて、宿毛街道。ここに江戸時代の古い地図(絵図)(徳右衛門丁石の話23-2、辺路亭、e-kiyo様)があります。灘道・中道・篠山道の三本が見事に満願寺に集まっています。この絵図の地名をみると、少なくとも岩松から宇和島へ松尾峠を越える遍路道(と云うことは灘道経由)が一般的になる前は、満願寺から野井坂越えがへんろ道の王道だったのでしょう。


癒しの道愛南町へんろ道 宿毛街道

 癒しの道愛南町へんろ道による宿毛街道の地図です。満願寺が表示されていないのは残念ですが、松尾峠の岩松側ですべての道が合流しています。しかし、満願寺から野井坂越えのルートがあり、中道・篠山道から野井坂を超えると柿木で全ての道が合流します。真念さんの頃から満願寺が衰退気味であったということは、ほとんどのお遍路さんは灘道(観自在寺・八百坂・柏坂・岩松)を通られていたのでないでしょうか。

 いずれ中道・篠山道にもチャレンジしたく思っていますが、WEBで読ませて頂くと野井坂超えを含めてへんろ道を辿ることは容易なことではないようです。


三十九番延光寺(未)-----道 中(未)-----四十番観自在寺(未)


来月号(2011年9月号)のBE-PAL [四国遍路]

来月号(2011年9月号)のBE-PAL

 昨年から今年にかけて宿泊まりの歩き遍路で一回りした。12月中に結願するはずだったが、右の膝が痛んで生見から先に進めず(高知平野から始めたので神峯寺が結願)、暫く休んで再開。三月のまだまだ寒い頃に結願、大日寺にお礼参りに行った。

 気楽に高知の周りから始めたもので、20年前のカメラマンバッグ(約20L)に納経道具と雨具だけが必須でカメラも一緒に持ち運んだ。しかし足の痺れが考えていたよりもきつく、腰掛けなくては足が前に出ない状態になる(はじめは500m位しか歩けなかったので、お四国一回りで2000回近く座ったな、これはこれで凄いかもしれない (^^; )。地べたに座るのは格好悪いので、どこでも座れるようにイスパックを購入した。窪川から大洲まではこれで行った。頻繁に座り込むものだから愛媛では二回パトカーにマークされた気がする。まあ随分と便利だった。

 所が段々と寒くなり厚手の服も欲しくなってきた。とくに久万高原は高知から見ると寒い所だ。イスパックでは持ち物が充分に入らず、タラスブルバの33+5Lを購入した。イスパックは便利だったが、雨が降り中身を濡らさないようにすると使用でき難くなる。その頃には無理にイスにこだわることはなかった。足が痛みはじめても、座れる所までどうにか歩ける程度になっていた。

 そして寒い12月に焼山寺(ただし神山廻り)・お鶴さん・太龍寺に行ったものだから、いつの間にかバッグの重さが 9Kg程度になっていた。娘がIT遍路ねと云ったが、携帯カーナビ・ザウルス・エネループ(リチウム)なども常時携行していた。重い重いと思っていたが馴れてきた。

 そうなると何時しか最近のテントを購入すれば厳冬でなければ10Kgを越えずに野宿で歩けるのでないかと考えるようになり、バッグは余裕が欲しいのでグレゴリーの45Lを購入した。番外霊場も行ってみたいと二廻り目にチャレンジ中だが、実際の所バッグ内に10Kg、頭陀袋に2Kg、それに水1~1.5Kgの15Kg位だろうか?

 ここでやっと来月(発売日8月10日)のBE-PALの話になるが(^^; 、特集が四国・お遍路バックパッキングらしい。実は野宿を考えた時から期間限定でBE-PALを購入、情報を得ていた。大略、自分ではこうしようと判ってきたのでボツボツ購入を止めようと思っていたところだった。最近の充実した付録にありつけたのも良かったが、次回付録はバックパッキング術らしい。まだまだ向上しなければと思うところもあるので購入することにした。でもバックパッキング結構なのだが、お遍路さんのマナーが悪いとさらに泊まる所が制限される可能性も高い。BE-PALはしっかりとその点も指摘しておいて欲しいところだ。

 そう云えば伊予に入ってすぐだが、一本松から御荘(観自在寺)に向かう道中、上大道満倉に遍路地図にない東屋とトイレがある。酒屋さんが前にありパンなどを購入可能だ。そこを管理されている方々は"四国一の休憩所を目指している"とのことで掃除など行き届いている。野宿派の方は利用されると良いだろうし、そんな時地元の方々を失望させないように気をつけたい。

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