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築地本願寺にいる [ケータイひとり言]

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 宿毛の自宅から数十mの所に清宝寺がある。小学校の時同じクラスに後藤さんと云う女の子がいた(もうおばあちゃんだが御健在かな?)。当時僕は仏教に関心もなく随分後に知ったのだが、彼女は後藤環爾の親類ってことになるらしい。まあ、後藤環爾と云ってもほとんどの方は知らないだろうし、この記事を書きはじめた築地本願寺にあるお休み処紫水で尋ねてもしらなかった。

 以下は宿毛文教センター(http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p015.html)からの丸々引用で、申し訳ないが後藤環爾の築地本願寺での業績としてご紹介したい(出先につき長文丸写しゴメン)。m(_ _)m

(/引用ここから)
築地本願寺の建立

後藤環爾の畢生の大事業は束京築地本願寺の再建である。大正12年9月1日の大震災は一瞬の間に大東京市を廃都と化した。ことに本所深川方面の被害は大きく、数十万の圧死者、焼死者を出し、生き残った者も住むに家なく、飲むに水さえない全くの生地獄であった。住民はすべて茫然自失、全く手のつけようもない混乱の中である。しかも交通機関はすべて麻痺し、人心は極度にすさみ、ついに政府は戒厳令を布いて治安を維持すると云う最悪の状態になった。

本願寺築地別院も、もちろん灰燼に帰した。ここは本願寺の東京における本部の所在地で関東の本拠の全滅は布教はもとより、あらゆる活動面でまことに手痛い被害であった。しかし彼はひるまなかった。断然起ち上って、この難民救済に乗り出したのである。彼等に何よりも先づ食を与え、寝る場所を供し、怪我人、病人の治療に当ることが先決問題と考え、本部と連絡して慰安休息所、簡易診療所の応急設置に乗り出した。築地本願寺の境内は4散した瓦礫、焼けただれた残材の取片付けの暇も無いのに、庭の片隅みに天幕を張って病人や怪我人の収容を始めたが、環爾等は不眠不休の活動で、当時を知っている人達の語る所によれば、どれがお医者さんやら、坊さんやら、又大工さんやら風体だけでは全くわからない格好で奮斗していたそうである。そうして青山、本所、宮城前広場、深川、猿江、三河島等次々に慰安休息所を開設して難民を救済し、又百方手をつくして医師を探して診療所を開いて医療救済に乗り出した。衆生済度、難民救済、云うは易いがこの非常事態に当面していち早
くこれを実行した本願寺の処置は、まことに当を得たもので、これを実行した環爾達は貧しい都民からは慈父のように慕われたと云うことである。

震災から日を経るにつれ、復興の金槌の音も次第ににぎやかとなり、都民のあの不安、焦燥、無気力も次第に失せて街は日に日に活気をおびて来た。環爾の本格的な活動がこの時から始まったのである。即ちそれは築地本願寺別院復興の悲願達成への道である。都民の真の立ち直りは、精神面の立ち直りにある。不屈不撓、安心立命の境地に導く心の道場の建設こそ、宗教家に課せられた課題であると信じた彼は、この荒野の中に世界的な大建築を建立する悲願を樹て、あらゆる困難と斗う決意の下に研究を始めた。

築地本願寺の再建には何人といえど、異議をはさむべき何物もないが、再建で先づぶち当った問題は位置であった。旧位置に復旧か、又資金その他の関係から郊外に適地を求むるか。喧々がくがくの中で彼は旧位置への復旧を固執した。例により強引で粘り強い彼の主張はついに通り、築地での復旧に決定すると彼は直ちに、建築委員長に藤原銀次郎氏を担ぎ出すことに成功した。

藤原氏は我が国実業界の巨頭であり、財界は彼の手で左右出来得るとさえ云われていた大人物である。彼の委員長就任が決定した時、環爾は事は半分以上出来上ったと云って喜んだと云うことである。それにつけても、こうした大人物に食いこみ、これをして委員長たらしめた環爾の手腕の非凡さに誰もが驚いたと云う。

築地本願寺別院の様式は全く世界に類のないものだと云われる。これは環爾が時の東京帝大教授伊藤博圧に研究を依頼し、その結果、立案設計したもので世界の宗教建築の粋を集めて立案したものであると云う。本堂正面や両袖は有名な祇園精舎の彫刻やマンダラの技法を取り入れた印度仏教美術の粋を模し、又階段から地階への構造は朝鮮美術の粋、慶州の仏国寺の型を模したものである。その他世界中の建築様式をそれぞれの個所に取り入れて仕上っているので、或る意味ではキリスト教の建築もマホメット教の建築も取り入れた全く新らしい寺院型式である。その上本堂正面が宮域を向いて建って居り水道栓を上下八方にひきどこからでも消火作業の出来るように設備されている。

こうして都の一角に世界でも珍しい大寺院が出現したことにより、彼は之を都民の心のいこい場として広く世間に提供した。宗派の如何を問わず、およそ宗教的、修養的行事には喜んでその利用を許した。当時から都民の間では何宗であろうと築地本願寺で葬儀を営むことが、一般常識にさえなったと云う人さえあるのを見ても彼が如何に大衆の為の建築として努力したかがわかる。とにかく築地本願寺の再建は彼の畢生の大事業であり、彼の心血をしぼっての成果である。
(/引用ここまで)

 もちろん小野義真・小野義一、引退後故郷に戻っていた林有造(岩村三兄弟末弟)ら当時の政財界で活躍していた宿毛の人脈による後押し・協力があっただろう。しかし宿毛のように東京から遠く離れた町の小さなお寺の住職が、ここまで活躍できたのはやはり後藤環爾自身の若い時からの精進の賜物と云うべきだろう。

 後藤環爾は昭和5年西本願寺の執行長になっている。また、清宝寺には小野梓の碑とともに早稲田大学による紹介板(早稲田大学総長 西原春夫名)がある。
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