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'沈黙のファイル 「瀬島龍三」とはなんだったのか' (4) [書物(本・雑誌)雑感]

沈黙のファイル 「瀬島龍三」とはなんだったのか (4)
共同通信社社会部編
新潮社 新潮文庫き18-1


 ソ連によるシベリア抑留。強制労働を強いられた57万 5千人のうち 5万 5千人が死亡して日本の地を踏めなかった。第四章は「スターリンの虜囚たち」である。関東軍初年兵の田中氏は「上官が「日本軍の偉い人がソ連の戦後の後片付けに日本兵を使って下さいと申し出たので、しばらくソ連のために働かなくてはいけない」と説明してくれたのは、その後だった。」と云う。世に言う日ソ密約説である。

 根拠は終戦前元首相近衛文麿の側近が作った「和平交渉の要項」だった。昭和20年 7月10日、最高戦争指導会議は天皇の特使として近衛のモスクワ派遣を決定。英米和平工作として形の上で「中立国」の立場にいたソ連に仲介を依頼するためだった。その要項の「和平の条件」中に「海外にある軍隊は現地に於いて復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。(中略)賠償として一部の労力を提供することに同意す。」とある。

 しかし、 8月 19日、国境近くのソ連領ジャリコーワで行われた「停戦交渉」の内容では秦(関東軍総参謀長)も瀬島も、ロシア側のワシレフスキー極東ソ連軍総司令官もこれを否定している。実際、強制労働はスターリンの一存で決定されたようだ。むしろ瀬島ら関東軍は「民族再興」のため、満州にできるだけ多くの軍人・居留民を残すことを考えていた。本来中国領土である満州を戦後も民族再興に利用しようとする身勝手さと、ソ連の戦争捕虜処遇の歴史(シベリア送り)に対する無知を記事は指摘している。(ここで指摘しておきたいが、戦後までの履歴が判然としないアジアの英雄および取り巻きが、そのように残された日本兵および日本軍に協力の現地の方たちの可能性がある人っていないかな?これ親父様の妄想だからね (^^; )

  8月20日ワシレフスキーがモスクワに送った電文が残っている。「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るため、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。秦中将は、日本人、満州人、朝鮮人の関係が悪化していると述べた。また、日本軍将官、将校兵士に対するしかるべき取り扱い給養、医療×を要請した。私は必要な指示を与えた。

 この電文は発見されて後、1992年ボブレニョフの著作「シベリア抑留秘史」で紹介された。その日本語訳が全国抑留者補償協議会(全抑協)から出版されたが、原稿点検を頼まれた瀬島は上記×印の所(本来は何もない)に「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」と加筆、歴史的文書を改竄している。彼はソ連側の通訳が関東軍の言い分を的確に翻訳せず、要請した事実が抜けていたので加筆したと述べている。またまた、嘘です。上記のように関東軍は出来るだけ多くの邦人を満州に残したかったのが本音だったし、瀬島自身が 8月21日大本営に打電した「交渉」結果にも関東軍兵士の帰還・抑留の記載はありません。この嘘は、戦後50年近くなって(責任感などから)当時を取り繕うとしたものだろう。そう責めるべきものでないかも知れないが、資料を改竄することに躊躇しない瀬島氏の性格を現していると考えるべきだろう。そうでなければ、 (^_^オドシテドウスル シベリア抑留をめぐり日ソの密約説がささやかれ、「戦後最大の空白」と云われるジャリコーワの「停戦交渉」で書き残されない密約があったとされても仕方ない行為だろう。

 しかし、シベリア抑留は悲惨でした。近衛文隆氏を主人公としたミュージカル「異国の丘」(劇団四季)を観ましたが、悲惨さはそれ以上。とくにソ連が思想教育を行い、大勢の関東軍、中には東大社会学科卒業と同時に在学中の反軍国主義運動のため逮捕された方もいる。彼はソ連の日本語新聞「日本新聞」(ソ連人による)がソ連に残留している日本の革命家によると直感し、日本新聞にタッチする。捕虜に「日本新聞友の会」結成を呼びかけ、将校に対する過激な民主運動に発展。彼は「シベリア天皇」と呼ばれるようになり、民主化グループと将校たちとの間の殺人事件まで生じている。ソ連は以後将校と兵士の分離収容としている。その後(昭和24年頃?)将校たちも一部は兵士たちの収容所に戻され、元部下の兵士から罵倒され、精神的支柱が崩れて行く。元陸相板垣征四郎の息子正氏(彼は共産党入党も考える)や関東軍参謀森田誠氏の悲劇が描かれる。またシベリア天皇こと浅原氏もソ連捕虜管理局が彼は元特務機関員で日本新聞に潜入したスパイであると嘘の告発をし、昭和24年 8月重労働25年の刑を受けている。瀬島氏も浅原氏も、スターリンの死後、日ソ国交正常化交渉を経て更に後、昭和31年 8月釈放される。この間は将校連中が多く抑留されていたため、浅原ら民主化グループが手厳しくやられていたらしい。狭い日本で生きてゆく知恵は相手を徹底的に叩かないことなんだけど・・・、アッ大陸か。m(_ _)mクダラナイジョウダンゴメン、ケシテモヨイケド、コノンデ地雷ヲフムタイプデス ソレダケセマイニホンデイキテユクチエガダイジダトオモウ

 この間(シベリア抑留)の瀬島さんをみっちり書くと彼の人となりが描かれたと思うのだが、もともと本書は「瀬島龍三」とは何だったのかと副題をつけながら、彼の人物像を描くための本ではない。次回が最終章です。

 


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