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'山折哲雄の新・四国遍路' [書物(本・雑誌)雑感]

'山折哲雄の新・四国遍路'
山折哲雄・黒田仁朗
PHP研究所
PHP新書936
二〇一四年七月二十九日初版
ISBN978-4-569-81963-1

 この本を購入した際八十八ヵ所に限定されてきた霊場を、(山折氏だし)神仏混合の四国遍路を奨励するものかと思った。でも、そうであるような、ないような・・・。基本的に山折氏と黒田氏の遍路を念頭に置いた四国訪問記って感じである。四国遍路をメインにしたものでなく、そこだけみて新しい四国遍路の提案(第1章)と云われてもなあと思う。いや、全体の内容は面白いが・・・。

 第2章で山折氏の感想(一部妄想)が述べられる。28頁に全体図が示され、そこに従うと大山祇神社・能島、八ツ塚群衆古墳(衞門三郎伝説)、塩飽諸島、龍馬脱藩の道、宿毛泊り屋、淡路島高田屋嘉兵衞、阿波十郎兵衛屋敷、太龍寺・室戸岬を訪れている。善通寺法主樫原氏との対談でまず、四国霊場の寺院や遍路道を歩かれましたと紹介されているが、一部を歩いたということで道中は車である(霊場を全て回ったもいないと思う。)。第3章は車で山折氏を案内した黒田氏の道中記で、第4章は伊豫豆比古命神社(松山椿神社)宮司さんと前出善通寺法主さんとの対談で纏められている。

 この本で教えられたのは、聖徳太子「和を以って尊しとなす」の意味だろう。古代の激動期に新しい政治形態を創造するに、争いのみが前面に立つことなく充分に議論納得しての「和」が大事であるってこと。龍馬が当時の幕藩体制から新しい世を作ろうとした時、さまざまな諸勢力を連合させるような「和」でもある。あっさりと破壊なき「和」の精神はただの談合ですとある。正解だろう。

 その他、山折氏の観察眼が羨ましい。御高齢であるが感動され、意味を探りチョット妄想かなと感じるものも混じるが楽に読めるし勧められない本ではない。(^^;当方モ妄想大好キ、否定スルモノデハナイ、デモ妄想有リ 台風の前夜から土佐市塚地休憩所にて宿泊されたお遍路さんも、御年輩ながらみずみずしい心で感服した。そんな感じで四国を観察している(読んでる人には判らないね)。

 実は私がはじめてネットで紹介したのは「泊り屋」でした。今と違ってなんも書いていない。(^^; また記事に出てくる道の駅「すくもサニーサイド」の休憩所で野宿(雨のためテント設営)もしましたが、テントがあれば海側を勧めたいです。小筑紫に向かってわずかな坂道になり車(運転手))がアクセルを踏んで音が大きくなります。自分が運転しているつもりになり、音を聞きながらここでアクセルを踏んでと思うようになり、後は安眠しましたが・・・。

 ただ神社巡礼のことは置いて、新・四国遍路と銘打った題名がいかにも開創1200年に便乗した感じで好ましくなかった。最初に書いたように四国訪問記だがお四国も忘れていないよって感じだ。車で行ったと早くから書いていたので、四国遍路の車と歩きの違いを述べようと思っていたが、またの機会に。m(_ _)m


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今日はブログ開設記念日 [お知らせ]

今日はブログ開設記念日

 今日 7月 1日は本ブログ開始日である。2007年病気退職して手続き中で、病気退職手当の制度が変わり貰えるかどうか不安だった。女房殿にこれからは頼むとお願いして、頑張るからと勇気づけられていた。記念に黒くなった指先の写真でも撮って置こうかと明るい女房殿で、寄り添ってくれる彼女に感謝の意味でブログのスキンを寄り添うチューリップとした。一本では倒れるかも知れない僕が寄り添ってくれるから立っていられると思ったからだ。正直なところ、収入を絶たれてブログで少しは稼ぐことが出来るかもしれないとはじめたものだった。手当が貰えるようになってすぐにアフィリエイトはやめた。

 今年で僕の歳も65歳をこえた。いずれ近づく年金生活の足しにアフィリエイトを再開しようかと準備もしていたが、amazonがスマホを出してネットで商品の写真を撮るとamazonに直結するようになるそうだ。そうすればせっせと書き込んでも写真一発アフィリエイトはすっ飛んでしまう。だからそのニュースを見た時からやる気がなくなり、当面再開しないことにした。そりゃ贅沢はできないが、慎ましくなら生活できるだろう。人の欲望なんて無視できる程度のことが多い(と思っている)。欲望に従いすぎると詐欺なんかに引っかっかるとしたものだ。

 そうそう、65歳をこえたなあと思ってからカテゴリーに「自笑狂夫老更狂」を追加している。まだ何も書いていないが(^^;、そこに書き込むのを楽しみにしている。僕のような狂夫が何を書いても他人様も笑って見るだけだろう、それで良いと思う。今年になって三つしか書いていない本ブログに訪れてくれる多くの皆様への感謝の気持ちだ。まだ、一つも書いてないが・・・ (^^;今後モコノ調子デス

P.S. 最近お遍路の際に持って行くのは西行か杜甫になっています。

'理系バカと文系バカ' [書物(本・雑誌)雑感]

'理系バカと文系バカ'
竹内薫・嵯峨野功一
PHP研究所(PHP新書586)
二〇〇九年六月九日第一版第五刷(第一刷 二〇〇九年三月三〇日)
ISBN 978-4-569-70643-6

 「日本人は分類したがる」からはじまる本書であるが、理系・文系と分けた最初は旧制高校で金のかからない学部を文系、かかる学部を理系としたことによるらしい(P21)。理系・文系だけが分類の基準ではないがよく耳にする分類であることは間違いない。

 最初から「バカ」と云う言葉はショック療法として挑発的に使用し、読むに従って理系人間・文系人間と呼ぶようにしていると書かれ「バカ」を笑おうという本ではない。それでも第1章(こんなタイプが「理系バカ」「文系バカ」)に最長の65ページを使用している。そこでは理系バカ文系バカと呼ばれる10の事例が紹介され詳しく述べられている。僕の場合、それらを試してみると文系バカに該当するのは 2/10、理系バカはウーンと悩み強いて云えばと選んで 6/10である。ファッションに無頓着なんてのがあれば速攻で選ぶことが出来るから理系バカと思って間違いないだろう。

 この本は全体的に理系人間への応援と云ったもので、日本に理系人間が増えて重要なポストに就いて欲しいという気持ちが溢れている。だから第3章(日本は理系人間が育ちにくいのか?)が二番目に長く47ページとなるが、その前第2章で相手をおもんぱかってのコミュニケーション能力を持たない理系バカを説明し、こうなっていない理系人間を求めている。一方文系人間に対しては理系も理解して下さいって感じにも読める。それで目指すのは文理両道とはじめから書いている。だから題名ほど過激な本ではない。

 終わりの頃に「医学」も同じ。本来なら「化学」とか「生物学」があった上で、「医学」があるのだが、途中でそんなことをやっていても病気は治らない。だからそこをすっ飛ばして(現場のお医者さんは)経験則でやるのだ。(187)とある。せめて経験則を補強するために医学文献を読んでいると述べてほしかったなあ。少なくとも昔に較べて医者同士の会話で「私の経験では」と述べて話を終わらせる方は減ったと思っている。もちろん患者さんを経験することが医療で大事と思ってはいる。

 この本は面白く書かれた本で実例も多く、上に述べただけでは魅力が失われている。理系応援の本ではあるが、むしろ文系の方が読むと得るところが多いかと思う。

P.S.
 高校生の時に理科系の進学クラスにいたが、京大法学部卒の先生から出世したければ文系を選択しろと何回も云われたことを思い出す。
 理系バカを強調する書き方を心掛けました。(^^;だから、最近風邪が長引き体調が悪く、一応大事を取っておこうと歩き遍路に行けない。家の中に閉じ籠もっているとblogを毎日書いていた頃、読もうと買っていた数冊の本が目に入り読んでみたって余分なことは省く。僕の文章ってこんなのが多くって長くなるんだよねェ。

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第三十七番札所 藤井山岩本寺(五智院) [四国遍路]



第三十七番札所 藤井山岩本寺(五智院)



<<住所>>高知県高岡郡四万十町茂串町3-13
<<電話>>0880-22-0376


<<本尊>>不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩
<<開基>>行基
<<宗派>>真言宗智山派
<<御詠歌>>六つのちり五つの社あらわして深き仁井田の神のたのしみ

<<駐車場>>あり
<<宿坊>>あり(80人)要予約


本ブログの四国遍路にはじめての方へ





天井画その1


 岩本寺と云えば本堂建立の際、天井を覆うため募集された絵で有名だ。実は岩本寺のページを作ろうと思った際、最初の写真は天井画でなく石柱を使おうと考えていた。次の写真である。


山門を入り右手側に回った所の石柱


 僕は本ブログに高岡神社(1)それでも、やはり、岩本寺高岡神社(2)それでも、やはり寄りたい、仁井田五社を書いた。岩本寺の本来の役割を表しているのが、この石柱(文化十三丙子 1817年造)だった。「卅七番大師堂 並五社納経所」と大きく書かれている。岩本寺の歴史で一番大事なことだろう。(以下独断と偏見だからご自身で確認を)。

 岩本寺から北北東約2Km、四万十川の対岸に高岡神社がある。古代ここに六神を祀る仁井田大明神があった。<<寺伝:天平年間に行基が仁井田大明神に福圓満寺(以下福円満寺)を開創、さらに天の七星に倣い六寺を建立し七福寺と呼ばれた>>。弘仁年間に空海は仁井田大明神を五社に分祭各々に本地仏五体を納め五社大明神と改称、境内に福円満寺を開いた<<寺伝:さらに五ヶ寺を建立し七福寺は十二福寺となった>>。本地仏五体を納めた五社大明神(現高岡神社、以下五社または五社大明神)が札所であった。

<妄想の基>
 ここで仁井田郷(現窪川町全域と中土佐町の一部)について。応仁2年(1468年)土佐に入った一条家は在地勢力の仁井田五人衆(窪川・東・西・西原・志和氏)を荘官に任じたが、後に佐竹氏・南部氏・蹉陀分が加わり仁井田郷は八地区に分けられた。蹉陀分と読んでピンときた方は鋭い、蹉陀山金剛福寺領である(ちなみに五社の各宮は仁井田五人衆が各々支配していたようだ-南路志-)。仁井田之郷地検帳によれば仁井田五社の神田は散在し神主領を合わせると25町余で、ほとんどは蹉陀分である。また仁井田五社のある仕出原村は宮内村とともに主に蹉陀分である。仁井田五社は金剛福寺領仁井田山の鎮守として金剛福寺が経営に大きく関与していたと考えられるそうだ。</妄想の基>

 享禄-天文の頃(1528~55)福円満寺は衰退廃寺となり、仁井田五社の別当職にあった金剛福寺住職尊海法親王が宿坊として岩本坊を創建した(1589年仁井田之郷地検帳に岩本坊)。<<寺伝:天正の頃、兵火で寺社ともに衰退、再建時法灯・別当職が岩本坊に移った>>。それでも何故福円満寺跡地に福円満寺再建でなく、窪川に岩本坊なのだろう?<妄想>火災があったとしても福円満寺が衰退廃寺となった大きな要因は金剛福寺の考えがあったからでないだろうか?空海が福円満寺を作ったにしろ、当初は地元による経営が当然だっただろう。いつからか判らないが金剛福寺が絡んできて、土佐一条家隆盛の折には、福円満寺の経営は主に金剛福寺が行っていた。その土佐一条家が衰退、新たに長宗我部が仁井田五人衆を安堵している。札所である五社大明神が再度仁井田五人衆に支配されるようになり、(すでに焼失していたかもしれないが)福円満寺経営も地元へとの要求が強くなっていたってことはないだろうか?収入源の一つである納経を巡って安堵された仁井田五人衆と一条家の後ろ盾をなくした金剛福寺の争いがあったのでないだろうか?そのため以前に比べ劣勢の金剛福寺側が敢えて五社大明神から離れた地に岩本坊を創建したのではと考えてみる。</妄想>もちろん岩本坊が必要とされる要因はあった。街道と五社大明神を隔てる四万十川の存在である。増水すると街道から五社大明神にアクセスできなくなる。窪川側に遙拝所があり一応札を納めることはできるが、納経はできない。遍路への納経と宿泊サービスの名目で四万十川の窪川側に納経所をつくるのは別当寺として当然だろう。しかし岩本坊はそう歳月の経たない16世紀末に焼失したと云う。福円満寺の焼失と共に、また後の岩本坊の激動に何かあったのではと妄想を働かせてみた。戦国時代末期から江戸時代の金剛福寺・仁井田五人衆の正確な力関係を知らない僕の妄想だから、信じちゃダメ。(^^; 時期が判らないが僧釈長が再建し岩本寺と改称、その後京都仁和寺から住職として快長を迎え寺領が増加した時期もあったらしい。

 福円満寺廃寺後、納経を司ったのは五社中宮で岩本寺が納経を司ったのは明治の再興以降という説もある(高知県の地名 平凡社)。たまたま一度金剛福寺現住職とお話しする機会があり、五社大明神(中ノ宮)による納経についてお聞きした。別当職が岩本坊・岩本寺に移っているから、正統的に納経は岩本寺であり、中宮で行ったのは納経による収入が目的との見解だった。神社における別当職の意味を考えると全くその通りだ。しかし、僧釈長による再建まで岩本坊がなくなっていたり、神仏混淆の一般庶民は五社御朱印と区別しなかったのかも知れない(五社大明神が神社御朱印でなく納経していたかも知れないが、全国には江戸時代の納経帳も残されており検討すれば判る話だ)。

 御一新後も岩本寺の激動の歴史は続く。明治初年に神仏分離令が発布される。神仏分離により五社大明神と分離、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一される状況となった。本法は仏教排除を意図していないが全国的な廃仏毀釈運動のきっかけとなり、高知での廃仏毀釈運動は激しかった。岩本寺も明治4年に廃寺となっている。その後がまた判らない。明治18年愛媛県八幡浜に大黒山吉蔵寺(幻の37番札所大黒山吉蔵寺:八幡浜市-愛媛西方圏ブログ-)が新たな37番札所として開創されている。愛媛西方圏ブログからコピペで紹介させて頂くと、高群逸枝によれば彼女は九州から八幡浜に上陸後すぐに吉蔵寺に参拝。
一体大黒山吉蔵寺という寺号は、大黒屋吉蔵という人の名から取ったもので、大黒屋といえば現にこの地での多額納税者として誰知らぬ者なき素封家であるが、今から三十幾年前この吉蔵なる人、夜臥床にありて時ならぬ鐘の音を聞き、不審とは思いしも、そのままにすて置いて翌朝例の如く早く目を覚ますと、家内の者が仏間にこんな物があったといって、持って来たのを見ると八十八ケ所の納め札で、住所氏名は書いてなくその枚数三十七。ここにおいて、さては三十七番の札所をどうかせよとの、仏の思召しかと考え先にいった岩本寺を調べてみると、見る影もなく衰微しているので三千五百円を以て、本尊と納経の版とを買いとる事に相談をつけ須臾にして建立したのがこの寺である。(娘巡礼記)

 エッと思う話だが、誰かが「本尊と版」を売ったのである。廃寺となった岩本寺で版を使って非公式に納経し金銭を受け取っていた人(不特定多数かも?)がいて、その人が売ったのだろうか?(注:現在納経は墨筆によるもののみになったが印版による納経も広く行われていた。)明治38年の岩本寺再興後と思われるが、岩本寺から本尊・版の返還訴訟がなされ岩本寺が勝訴している。現在の岩本寺は、明治22年から続いているらしい。四国八十八ヵ所霊場会公式ホームページの岩本寺にも再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。とある。僕が初めて行った40年前に較べるとずいぶん落ち着いたお寺になってきている。今後も頑張って欲しい。
m(_ _)m長イ(仁井田五人衆ト金剛福寺ノ妄想付)混乱ノ歴史終ワリ
石柱ひとつでエライ目に合った。(^^;


岩本寺山門



岩本寺仁王像


 門前のお店から短い階段を上って岩本寺に入る。山門には立派な仁王さんが陣取っていらっしゃるが、はじめて行った時は味のある顔だけの仁王さんが出迎えていたらしい。記憶にないもので当時一緒に回っていた女の子に確認したが覚えていない。その時の手持ち写真を調べたがなく、フィルム自体は見当たらない。で、四国霊場の旅(徳島新聞社)より借用m(_ _)m。


岩本寺旧仁王像




岩本寺宿坊


 札所の宿坊も減ってきた。愛媛県では今治仙遊寺のみになったと御住職が仰有っていた。歩き遍路の減少で遍路宿もご高齢のため廃業される所も多く、今後も続けて欲しいものだ。下記は四国遍路ひとり歩き第3期第2日-菊水へんろ館-からのコピペだが、1998年当時であり現在の状況ではありません。参考にならないかもしれませんが、NHK四国八十八か所(1998年4月から2000年3月)が放映され、歩き遍路が激増する直前の記録として。m(_ _)m
宿坊とユースホステルを兼業しているお寺はいくつかある。同じタイプの客室を使い、同じ食事を頂くのだが、宿坊の客とユースホステルの客とでは料金が異なる。他のお寺のシステムは知らないが、この岩本寺では、料金が異なる分、待遇も異なった。

まず第一に、唯一の宿坊のお客であった僕は、床の間の近く、即ち上座を与えられた。次に、他の客は、ご飯は共同のおひつを使うが、僕には個人用の小さな専用のおひつが与えられた。他のお客は、共同の鍋からみそ汁を自分で取り分けるが、僕には専用のお碗が給仕された。そして最後に、他のお客は、食後、自分の食器を片づけなければならないが、僕の分は宿坊の人が片づけてくれる。料金は一泊二食つきで、宿坊は5000円、ユースは4500円(いずれも税別)である。

 2014年3月現在、(宿坊)一泊二食6000円(ユース)宿泊費3200円(非会員1000円増し)朝食600円・夕食1000円とのことです。他の方のサイトで宿坊のお米が美味しいとありました。高知の米は全般的には美味しくないとのことですが昔のこと、当地の仁井田米は美味しいと有名です。遍路道から国道に戻り歩いていると仁井田米を使っていると看板のある食堂があったでしょう。また、トイレは宿坊内にあり声をかけることで利用可能です(不在の時の電話番号も記載されています)。


水天宮


 水天宮のことはまったく知らなかったのですが(^^;・・・。水難除けと安産祈願の神として信仰されている(楽しくなければ遍路じゃない)とのことで、当寺の七不思議伝説のひとつである子安桜に関係しているのでしょうか?また、JRが通るのはこのうしろ写真では水天宮の屋根の高さにレールがあります。線路沿いに水天宮の右手には味のある石仏が並んでいます。


本堂


 岩本寺本堂(昭和53年建立)。岩本寺の特色は五仏本尊のお寺であることだろう。すでに書いたが弘法大師が神社の神々を五社に分け、その本地仏を祀ったとされる五社大明神が札所であった。昔のお遍路さんは五社のひとつひとつで真言を唱えていたのだろう。ある意味本堂で五つの真言を唱える現状もそれはそれで特色となっている(五ヵ所でそれぞれを唱えるのも、最強の特色になると思われるが・・・)。ちなみに青龍寺のミニ88ヵ所には五社阿弥陀如来の石仏に岩本寺不動明王の立て札がある。中央にあり一番大事だろう本尊が阿弥陀如来であり、五社の並び順でもっとも東が不動明王ってことだろう。


本堂前の仏足跡
本堂前の観音像


 本堂の向かって左に仏足跡 右に五本尊のひとつ観音像が置かれている。


地蔵菩薩像


 地蔵菩薩も五本尊のひとつだが、折角の岩本寺。矢負いの地蔵作製をお願いしたほうが良かったのでないでしょうか?子供を救う地蔵菩薩はお馴染みですが、六道で苦悩する生き物を無限大の慈悲で救おうとする地蔵さんが、苦悩する猟師の身代わりになるんだから岩本寺にふさわしい。


高田屋嘉兵衛と海月庵


 ネットで教えて貰ってエッと思った、お墓と木の間の小さな石柱のことである。。岩本寺遍路石高田屋嘉兵衛岩本寺の遍路石2高田屋嘉兵衛さんについて(♪四万十あちこちたんね隊♪)である。江戸末期云々と書こうとしても、情報はこれらのページからであり、いっそさわりを遍路石2からコピペ。
この時、あんまし体の強くなかった奥さんのおふささんは、、高田屋の者を連れて四国八十八か所に無事帰ってくるように一生懸命にお願いして回りました。

ご利益があって、1年後無事帰ってくることができ、帰国した高田屋嘉兵衛さんは、さっそく四国八十八か所にお礼まいりを行いました。

(中略)

何かお返しができれば(何か役に立つものを)と考え、岩本寺の聖心和尚(?)に相談したところ、

「それなら添蚯蚓坂の海月庵を直したらええわい・・・」

海月庵の新築(?)となりました。庵寺の横に遍路石を置きました。

 国道ができて添蚯蚓の社会的使命が終わった頃、この石を岩本寺に運んでこられた男がいたのですね。添蚯蚓で窪川に向かい左側に少し平たくなっている所が海月庵跡地と思っていますが、観光情報遊ぶ(中土佐町)に海月庵はその昔、修行中の空海が久礼湾上の月を賞して「海月庵」 という庵を結び、地蔵菩薩と自坐像を刻んだという空海修行伝説の地と説明。明治の頃には庵跡は茶店になっていたようですが、そこにあった石であり五社に較べやや弘法大師の臭いが薄い納経所岩本寺で、高田屋嘉兵衛のお陰で本尊を除くと一番弘法大師にご縁がある石かも知れない、少なくとも遍路(昔は当然歩き)との関係は深い。


鐘楼


 ここから庭は奥に入るようになるが、右手前にある鐘楼。


聖天堂


 庭の奥にある大師堂に向かい最初に目立つのが円形木造の聖天堂(平成8年落成)である。祀られているのは歓喜天(象頭人身のガネーシャタイプらしい。「日曜遍路」エス・ピー・シー出版2013)が単身か歓喜仏か判らない。


大師堂


 岩本寺で一番古いのがこの大師堂(約200年)。殺生を無用と考えた猟師が自分の胸に矢を射て、妻におこされると胸に矢が刺さった地蔵仏があったとされる矢負いの地蔵も大師堂に祀られているとのことです。


清流殿


 四万十川に因んだ名前と思う。


天井画2
天井画3


 終わりに、再度、本殿の天井画をお楽しみ下さい。m(_ _)m


36番 青龍寺(未)--道中--第37番 藤井山岩本寺--道中(未)--38番 金剛福寺(未)



築地本願寺にいる [ケータイひとり言]

DCIM0189.JPG
 宿毛の自宅から数十mの所に清宝寺がある。小学校の時同じクラスに後藤さんと云う女の子がいた(もうおばあちゃんだが御健在かな?)。当時僕は仏教に関心もなく随分後に知ったのだが、彼女は後藤環爾の親類ってことになるらしい。まあ、後藤環爾と云ってもほとんどの方は知らないだろうし、この記事を書きはじめた築地本願寺にあるお休み処紫水で尋ねてもしらなかった。

 以下は宿毛文教センター(http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p015.html)からの丸々引用で、申し訳ないが後藤環爾の築地本願寺での業績としてご紹介したい(出先につき長文丸写しゴメン)。m(_ _)m

(/引用ここから)
築地本願寺の建立

後藤環爾の畢生の大事業は束京築地本願寺の再建である。大正12年9月1日の大震災は一瞬の間に大東京市を廃都と化した。ことに本所深川方面の被害は大きく、数十万の圧死者、焼死者を出し、生き残った者も住むに家なく、飲むに水さえない全くの生地獄であった。住民はすべて茫然自失、全く手のつけようもない混乱の中である。しかも交通機関はすべて麻痺し、人心は極度にすさみ、ついに政府は戒厳令を布いて治安を維持すると云う最悪の状態になった。

本願寺築地別院も、もちろん灰燼に帰した。ここは本願寺の東京における本部の所在地で関東の本拠の全滅は布教はもとより、あらゆる活動面でまことに手痛い被害であった。しかし彼はひるまなかった。断然起ち上って、この難民救済に乗り出したのである。彼等に何よりも先づ食を与え、寝る場所を供し、怪我人、病人の治療に当ることが先決問題と考え、本部と連絡して慰安休息所、簡易診療所の応急設置に乗り出した。築地本願寺の境内は4散した瓦礫、焼けただれた残材の取片付けの暇も無いのに、庭の片隅みに天幕を張って病人や怪我人の収容を始めたが、環爾等は不眠不休の活動で、当時を知っている人達の語る所によれば、どれがお医者さんやら、坊さんやら、又大工さんやら風体だけでは全くわからない格好で奮斗していたそうである。そうして青山、本所、宮城前広場、深川、猿江、三河島等次々に慰安休息所を開設して難民を救済し、又百方手をつくして医師を探して診療所を開いて医療救済に乗り出した。衆生済度、難民救済、云うは易いがこの非常事態に当面していち早
くこれを実行した本願寺の処置は、まことに当を得たもので、これを実行した環爾達は貧しい都民からは慈父のように慕われたと云うことである。

震災から日を経るにつれ、復興の金槌の音も次第ににぎやかとなり、都民のあの不安、焦燥、無気力も次第に失せて街は日に日に活気をおびて来た。環爾の本格的な活動がこの時から始まったのである。即ちそれは築地本願寺別院復興の悲願達成への道である。都民の真の立ち直りは、精神面の立ち直りにある。不屈不撓、安心立命の境地に導く心の道場の建設こそ、宗教家に課せられた課題であると信じた彼は、この荒野の中に世界的な大建築を建立する悲願を樹て、あらゆる困難と斗う決意の下に研究を始めた。

築地本願寺の再建には何人といえど、異議をはさむべき何物もないが、再建で先づぶち当った問題は位置であった。旧位置に復旧か、又資金その他の関係から郊外に適地を求むるか。喧々がくがくの中で彼は旧位置への復旧を固執した。例により強引で粘り強い彼の主張はついに通り、築地での復旧に決定すると彼は直ちに、建築委員長に藤原銀次郎氏を担ぎ出すことに成功した。

藤原氏は我が国実業界の巨頭であり、財界は彼の手で左右出来得るとさえ云われていた大人物である。彼の委員長就任が決定した時、環爾は事は半分以上出来上ったと云って喜んだと云うことである。それにつけても、こうした大人物に食いこみ、これをして委員長たらしめた環爾の手腕の非凡さに誰もが驚いたと云う。

築地本願寺別院の様式は全く世界に類のないものだと云われる。これは環爾が時の東京帝大教授伊藤博圧に研究を依頼し、その結果、立案設計したもので世界の宗教建築の粋を集めて立案したものであると云う。本堂正面や両袖は有名な祇園精舎の彫刻やマンダラの技法を取り入れた印度仏教美術の粋を模し、又階段から地階への構造は朝鮮美術の粋、慶州の仏国寺の型を模したものである。その他世界中の建築様式をそれぞれの個所に取り入れて仕上っているので、或る意味ではキリスト教の建築もマホメット教の建築も取り入れた全く新らしい寺院型式である。その上本堂正面が宮域を向いて建って居り水道栓を上下八方にひきどこからでも消火作業の出来るように設備されている。

こうして都の一角に世界でも珍しい大寺院が出現したことにより、彼は之を都民の心のいこい場として広く世間に提供した。宗派の如何を問わず、およそ宗教的、修養的行事には喜んでその利用を許した。当時から都民の間では何宗であろうと築地本願寺で葬儀を営むことが、一般常識にさえなったと云う人さえあるのを見ても彼が如何に大衆の為の建築として努力したかがわかる。とにかく築地本願寺の再建は彼の畢生の大事業であり、彼の心血をしぼっての成果である。
(/引用ここまで)

 もちろん小野義真・小野義一、引退後故郷に戻っていた林有造(岩村三兄弟末弟)ら当時の政財界で活躍していた宿毛の人脈による後押し・協力があっただろう。しかし宿毛のように東京から遠く離れた町の小さなお寺の住職が、ここまで活躍できたのはやはり後藤環爾自身の若い時からの精進の賜物と云うべきだろう。

 後藤環爾は昭和5年西本願寺の執行長になっている。また、清宝寺には小野梓の碑とともに早稲田大学による紹介板(早稲田大学総長 西原春夫名)がある。
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